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関ヶ原合戦後、なぜ大量の牢人が発生し、大問題となったのか。その事情を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足軽。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂の陣前夜の模様が描かれていた。大坂の陣の際、豊臣家に集まったのが大量の牢人である。関ヶ原合戦後、なぜ大量の牢人が発生したのか。その事情を探ることにしよう。

 牢人とは主人を失って、各地を徘徊した武士のことを意味する。かつては「浪人」と書かれていたが、近世初期の段階までは「牢人」と書かれることが多い。牢人が誕生する背景には、いかなる事情があったのか、もう少し詳しく考えてみよう。

 応仁元年(1467)の応仁・文明の乱以降、戦乱の世が始まった。守護や国人たちは生き残りをかけて戦ったが、敗者には過酷な運命が待ち構えていた。当主たる大名は追放、あるいは死に追いやられ、配下の者は失業することになった。

 しかし、大戦争の時代だったので、有能な者は新たに仕官先を見つけることができた。勝者は領土の拡大に伴う支配やさらなる戦争のために、経験豊富な武将を雇ったのである。つまり、人材の循環が成り立っていたのだ。

 しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅亡に追い込むと、大戦争の時代は終結した。安定した時代になり、戦争がなくなったので、大名は必要以上に人員を雇う必要がなくなった。

 こうして、牢人が大量に出現したのである。秀吉は彼らに対し、武士身分を捨て、農民などになるよう迫った。それどころか、牢人は町や村に住むのが難しくなった。まさしく、牢人受難の時代になったのだ。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦は、再び牢人に活躍の場を与えた。しかし、敗戦した西軍の大名が減封、改易になるのに伴い、再び牢人が大量に発生した。牢人は再仕官を志したが、その道は極めて厳しかった。

 一方で、勝利した大名は領土が拡大したので、新たな人員を必要としたが、必要以上に雇わなかった。戦争の時代が終わったので、致し方ない措置だった。牢人に再び受難の時代が訪れたのだ。

 減封となった大名は、余剰人員を抱えて非常に財政事情が厳しくなった。たとえば、毛利氏は120万石から30石へと石高が4分の1に大幅減になったが、抱えていた人員をクビにするわけにはいかなかった。

 毛利氏は減封に対処すべく、1人あたりの知行地を大幅に減少して対応した(「毛利家文書」)。こうした措置により、できるだけ牢人を出さないようにしたのである。似たような大名は、多かったはずである。

 むろん家臣団の縮小を通して存続を図った大名もあったが、いずれにしても、牢人問題は避けることができなかった。牢人の数は必ずしも明確ではないが、大坂の陣で有名・無名を問わず多くの牢人が参集したので、相当な数に上っていたと考えられる。

 やがて、徳川方と豊臣方が対立し、大坂の陣が起こる気配となったので、牢人は再び活躍の場に登場した。その辺りは、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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