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徳川家康は二条城で豊臣秀頼と引見し、自発的に臣従させることに成功した

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
二条城の国宝二の丸御殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と豊臣秀頼との引見の模様が描かれていた。慶長16年(1611)、家康は二条城で豊臣秀頼と引見し、自発的に臣従させることに成功した。この引見には、どういう意味があったのか確認することにしよう。

 慶長16年(1611)、家康は約4年ぶりに上洛し、二条城で豊臣秀頼に引見することになった。実は、家康の上洛の最大の目的は、後陽成天皇から後水尾天皇へ譲位が行われたので、即位の礼に参列することだった。

 後陽成天皇は慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死の直後、そして翌々年の関ヶ原合戦の二度にわたり譲位の意向を示したが、その希望は実現しなかった。慶長15年(1610)2月、後陽成は再び譲位の旨を家康に告げ、譲位の運びとなったのである。

 もう一つ大きな目的は、大坂の秀頼との面会である。秀頼への上洛要請は、すでに豊臣方の家臣の織田有楽斎を通じて行われていたので、豊臣方には断る術はなかった。秀頼の説得には、福島正則、加藤清正、浅野幸長があたった。

 家康の上洛要請を承諾した秀頼は慶長16年(1611)3月27日に淀に宿泊し、翌日の面会に備え、翌日には家康のいる二条城に向かった。鳥羽まで秀頼を迎えにいった徳川義直には浅野幸長が、徳川頼宣には加藤清正がそれぞれお供をし、池田輝政や藤堂高虎も出迎えた。

 秀頼が二条城に到着すると、家康は自ら庭中に出て丁重に迎え入れた。家康は秀頼に対等の立場で礼儀を行うよう促したが、秀頼はこれを固辞し、家康が御成りの間にあがると、先に礼を行ったのである(『当代記』)。

 この点は、家康が秀頼を二条城に呼び出し、挨拶を強要して臣従化を行ったと指摘されてきたが、家康の丁寧な応対ぶりから、秀頼に臣従を強制したとは言い難いと指摘されている。

 しかし、挨拶が秀頼の自発的な行為であり、孫婿・秀頼の舅かつ官職が上の家康に対する謙譲の礼であって、臣従の礼ではないという指摘には賛同し難い。

 この点については、本多正純の「二条の御所にて、大御所様へ御礼仰せ上げられ候事」という言葉から、2人の会見の本質は家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行わせたことで、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式だったとの指摘がある。

 この見解が妥当であり、二条城の会見は家康が巧妙に仕組んだものといえよう。

 家康は秀頼に配慮したように見えるが、家康のほうが立場的に上だったので、秀頼は「対等の立場で」という提案を受け入れるわけにはいかなかった。家康もその点は承知していた。

 家康は秀頼に挨拶を強制するのではなく、自発的に行うように仕向けたのである。家康からすれば、秀頼を二条城に出向かせ、挨拶させることに大きな意味があったのだ。こうして家康は、徳川家が豊臣家より上であることを諸大名に知らしめたのだ。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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