関ヶ原合戦で大活躍! あまりに無念だった井伊直政の最期
大河ドラマ「どうする家康」は、関ヶ原合戦後の徳川家康の動向が描かれ、残念ながら徳川四天王の面々も相次いで姿を消した。中でも井伊直政は関ヶ原合戦で大いに軍功を挙げたが、その最期はあまりに無念だったので、取り上げることにしよう。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦において、直政は本多忠勝とともに東海道方面の軍勢を率い、まさしく家康の名代として中心的な役割を果たした。その軍功は戦いだけに止まらず、事前の調略戦でも尽力し、西軍の諸将を東軍に寝返りさせるなどの功を挙げた。
家康の四男の松平忠吉の後見役を務めるなどしたのだから、いかに直政が信頼されていかがわかるだろう。いざ合戦がはじまると、直政は忠吉とともに抜け駆けし、敵陣に攻め込んだといわれている。
しかし、直政が軍法違反の抜け駆けをするとは考えられず、実際は福島正則と交代して、先陣を任されたと考えられる。直政の獅子奮迅の活躍により、東軍は勝利をつかんだのである。
戦況が東軍に有利になると、島津軍は敵中突破により逃亡しようとした。いわゆる「島津退き口」である。直政は逃げる島津軍を追撃し、島津豊久を討ち取る武功を挙げた。
その際、直政は敵兵に鉄砲で撃たれ、怪我をしたのである。このときに受けた2ヵ所の傷が、のちに直政を苦しめることになった。家康は怪我を負った直政を哀れに思い、自ら調合した薬を渡したという。
その後、直政は佐和山城(滋賀県彦根市)を攻略し、石田一族を滅亡に追い込んだ。直政は本多忠勝、榊原康政と「天下の政事」を議したといわれ、毛利輝元との交渉にも尽力した。
また、長宗我部盛親から土佐一国を受け取るなどし、戦後処理でも活躍した。直政はそれらの功績が認められ、近江佐和山に18万石を与えられた。6万石の加増である。翌年には、従四位下に任官された。
佐和山は西国と東国との結節点でもあり、非常に重要な場所だった。家康は直政の力量を高く評価し、西国の要の地である佐和山をあえて直政に託したと考えられる。
ところが、当時の佐和山城は戦火で傷んでおり、山城は平和な時代に向かなかった。そこで、直政は彦根城の築城を計画したのである。実際に築城が開始されたのは、直政が亡くなった翌年の慶長8年(1603)だった。
慶長7年(1602)になると、直政に突然の不幸が訪れた。直政は、関ヶ原合戦時の鉄砲傷がもとで亡くなったのである。享年42。当時としてもまだ若く、直政はとても無念だったに違いない。遺骸は、彦根市の清凉寺に葬られた。
主要参考文献
渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』(角川学芸出版、2012年)