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関ヶ原合戦後、上杉景勝は大幅に減封され、その責任はすべて直江兼続に負わせた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
直江兼続。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦後の徳川家康が描かれていた。戦後、家康は東軍諸将への領知配分に加え、西軍諸将への処分も行った。中でも上杉景勝は関ヶ原合戦の原因となる行動をし、厳しい処分が科されたので、その辺りを確認しよう。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発した原因は、景勝が家康からのたび重なる上洛要請を拒んだからだった。家康は景勝を討つべく会津に向かう途中、石田三成らの挙兵を知ったのである。

 ところで、景勝は東北の東軍勢力と交戦していたが、西軍の敗北を知って兵を引いた。結局、景勝は勝ち目がないと悟り、家康に負けたのである。

 戦後、家康は景勝に対し、どのように対応したのだろうか。慶長5年(1600)12月、景勝は京都で留守を預かる千坂景親に書状を送り、本庄繁長を上洛させるので、よく相談するよう命じた。

 その際、家康の側近である本多正信らに口添えを依頼しているので、景勝は和睦を締結する覚悟を決めていたことがわかる。もはや、抗戦しても無駄だった。

 同じ頃、景勝配下の直江兼続も榊原康政に書状を送り、上杉家の実情を知らせていた。景勝はダメージを最小限に抑えるため、多方面から家康にアプローチを試みていた。

 翌年になって、ようやく景勝の上洛が実現したのである。その後も兼続は西笑承兌を通じて、引き続き和睦の交渉を行った。そして、慶長6年(1601)7月1日、景勝と兼続は会津を発って上洛し、7月24日に京都に到着したのである(『当代記』)。

 ここまで時間を要したのは、水面下での交渉が長引いたからだろう。8月8日、景勝は結城秀康(家康の子)に伴われて、伏見の家康のもとに参上した。

 8月24日、家康は会津など120万石を収公することとし、米沢(置賜・信夫・伊達の三郡)に約30万石を与えると景勝に伝えた(『家忠日記追加』)。これまでの領地から、約4分の1に減封するという厳しい処分だった。

 上杉領内の酒田城(山形県酒田市)は最上義光に接収され、かつて会津を領していた蒲生秀行が、景勝の代わりに会津へ入封した。返り咲きである。

 減封の影響は、上杉家の家臣たちにも及んだ。同年8月、兼続は5ヵ条の条書を定め、その中で「知行はこれまでの3分の1にする」と規定したのである。

 上杉家全体の領地が4分の1に減ったのだから、家臣の知行も減らす必要があった。景勝は改易を免れたのだから、家康の処分は寛大だったといえるかもしれない。

 とはいえ、その後の上杉氏はたびたび財政難に悩まされた。そこで、目を付けたのは、子がなく家が存続しなかった兼続である。兼続は「直江状」を家康に送り、それが会津征討のきっかけになったという。

 兼続の死後になって作成された軍記物語では、兼続が悪しざまに罵られた。兼続は、関ヶ原合戦における上杉氏の敗戦の責任をすべて負わされたのである。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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