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関ヶ原合戦後、豊臣秀頼の威勢は急速に下降したのか。その誤解を解く

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城とビジネスパーク。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、立派に成長した豊臣秀頼の姿があった。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、秀頼の威勢は急速に低下したといわれているが、それは誤解と思えるので、詳しく考えてみることにしよう。

 そもそも秀頼は、西軍に属していたのかという問題がある。慶長5年(1500)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)が「内府ちかひの条々」を発し、毛利輝元、石田三成らが徳川家康に対して挙兵した。そして、西軍の輝元らは、大坂城を占拠して西軍の拠点としたのである。

 しかし、この戦いは、秀頼が家康に戦いを挑んだのではない。あくまで輝元ら西軍の諸将が家康に戦いを挑み、豊臣政権下における主導権を握ろうとするものだった。

 したがって、あたかも秀頼があたかも西軍の総大将に見えてしまうが、それは大きな誤解である。厄介なことに、東西両軍とも大義名分として「秀頼への奉公」を掲げ、互いに非難していた。

 近年、秀頼は西軍の総大将として、関ヶ原の近くに築かれた玉城に入城しようとしたという説が提起された。関ヶ原合戦を描いた屏風を見ても、たしかに玉城らしき城を確認できる。それは事実なのか。

 水野伍貴氏によると、そもそも玉城は関ヶ原合戦とは関係なく、秀頼が西軍の総大将として出陣する計画はなかったという。史料的な裏付けはない。おまけに、屏風は後世に成って作成されたので、歴史史料としてはふさわしくない。

 秀吉の遺領を受け継いだ秀頼の所領高は、全国各地に散在する蔵入地など220万石あったという。戦後には、秀頼のお膝元である摂津、河内、和泉の3ヵ国・65万石が辛うじて認められ、所領高は約3分の1までに激減した。

 とはいえ、先述のとおり、秀頼は関ヶ原合戦で負けたわけでもなく、蔵入地は政権運営のための財源と捉えることも可能である。戦後も秀頼は、豊臣政権の主宰者であることに変わりはなかったのだ。

 それゆえ、戦後も豊臣政権そして秀頼の威光は、決して衰えることがなかった。そうした流れを断ったのが、慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍になったことである。

 家康が将軍になることで、武家の棟梁の地位を確固たるものにした。その2年後、家康が子の秀忠に将軍職を譲り、徳川家が世襲することを世に知らしめた。これにより、江戸幕府の永続性が周知されたのである。

 一方で、家康は孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなどし、友好な関係を継続しようとした。しかし、家康にとって大坂の地は、経済的にも政治的にも魅力的な地であった。

 家康は、いつかは秀頼を大坂から別の場所に移らせようと考えていたに違いないが、それが結果的に失敗に終わったので、大坂の陣が開戦したのである。その点は改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(星海社、2023年)

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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