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徳川家康が諸大名を臣従させ、豊臣秀頼を孤立させた巧妙な作戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
駿府城の徳川家康像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が威勢を増していく過程が描かれていた。慶長16年(1611)、家康は諸大名を集め、臣従させることに成功した。そこには、豊臣秀頼を孤立させるという目的があったので、詳しく検証しよう。

 慶長16年(1611)4月12日、家康は在京する諸大名に三ヶ条からなる法令を示した。三ヶ条の法令の重要なポイントは、源頼朝以来の将軍の法式に触れ、以後、幕府が発布する法令の遵守を堅く守らせることだった。次に、将軍の命令に背いた者を隠匿しないこと、謀反人・殺害人を隠匿しないことを誓約させた。

 三ヶ条の法令は幕府の絶対的な権力を顕示するもので、諸大名から誓詞を徴収する形で誓約させた。この法令は、幕府の優位性を天下に知らしめると同時に、諸大名に幕府への忠誠を誓わせることで実効性を担保した。すでに退潮著しかった豊臣政権は、完全にとどめを刺されたといえるだろう。

 北陸・西国方面の有力な諸大名22名は、三ヶ条の法令に同意し誓詞を差し出した。この中に奥羽・関東の有力な諸大名たちは含まれていないが、その理由は彼らが江戸城の天下普請に従事しており、上洛していないからだった。

 翌年1月、奥羽・関東の主だった大名11名が三ヶ条の法令に誓約した。その後、中小クラスの譜代・外様の大名ら50名も、続々と三ヶ条の法令に誓約したので、家康は全国の大名の臣従化に成功した。三ヶ条の法令は、実に大きな意味を持ったのである。

 ところが、豊臣秀頼だけが、この三ヶ条の法令に誓約しなかった。この点については、家康権力の限界性を認めたり、あるいは秀頼が家康にそもそも臣従する存在でないとの指摘もある。

 秀頼は諸大名と異なって別格の存在であり、徳川公儀に包摂することは不可能ということになろう。このように考えると、豊臣公儀あるいは秀頼の自立性は健在といえなくもないが、改めて検討する必要があろう。

 関ヶ原合戦後、家康は秀頼を別格とみなし、諸大名と異なる扱いをしてきた。しかし、慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍に就任すると、両者の立場は徐々に逆転していった。そのダメ押しが三ヶ条の法令である。三ヶ条の法令は、全国の諸大名を幕府に臣従させるのが目的だった。

 一見すると、秀頼を臣従させるのが目的ではないように思えるが、秀頼以外の諸大名が家康に忠誠を誓ったのだから、秀頼は間違いなく孤立する。軍事力を用いない婉曲的な方法であるが、秀頼を追い詰める効果は高かったと考えられる。

 家康が採用した方法は、諸大名を従わせることで、秀頼を孤立化させる戦術だった。家康は、秀頼を天下普請にも従事させず、三ヶ条の法令にも誓約させなかった。一見すると秀頼に配慮しているかに思えるが、決してそうではない。家康は狡猾かつ巧みな方法によって、心理的にも秀頼を追い詰めたのだ。

 秀頼は三ヶ条の法令に誓約をしなかったが、それは家康の配慮ではなく、自発的に臣従を促すものだった。武家社会の頂点に立った家康は、秀頼を豊臣政権の主宰者としての地位から、一大名として処遇することを望んだ。それが大坂の陣の遠因になったと考えてよいだろう。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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