関ヶ原から逃亡した宇喜多秀家は、八丈島に流されて無念の死を遂げていた
大河ドラマ「どうする家康」は、関ヶ原合戦で東軍が西軍に勝利したが、宇喜多秀家はあまり取り上げられていなかった。関ヶ原から逃亡した宇喜多秀家は、八丈島に流されて無念の死を遂げていたので、その経緯を含めて検証しておこう。
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、宇喜多秀家は関ヶ原から離脱し、そのまま逃亡した。秀家はわずかな従者とともに伊吹山を越えて不破に至り、最終的に美濃国池田村にたどり着いた。
途中で土民の落武者狩りに遭わないよう注意し、妻の豪姫から金銭的援助を得ていたという(『美濃国諸国記』)。秀家の逃避行については良質な史料に恵まれず、わからない点が多い。
一説によると、宇喜多家に仕える進藤三左衛門は一計を案じて、家康の家臣の本多正純のもとに赴いた。三左衛門は宇喜多家累代の太刀「鳥飼国次」を正純に差し出すと、秀家の逃亡時間を稼ぐため、秀家が自殺したと虚偽の報告した。
本来、虚偽の申告をした三左衛門尉は処罰されてもおかしくないが、かえって忠臣ぶりが評価され、罰せられなかったという(『徳川実紀』ほか)。
秀家が頼ろうとしたのは、西軍に属していた薩摩島津氏である。関ヶ原合戦後、薩摩に逃げ帰った島津氏は、家康と和睦の交渉中だったの好都合だった。
慶長6年(1601)6月、秀家は山川港(鹿児島県指宿市)にたどりつくと、出家して「久福」(以下、秀家で統一)と名乗り、大隅郡牛根(鹿児島県垂水市)で潜伏生活を送った。その後、秀家の旧臣が100人ばかり薩摩に押し掛けたが、島津氏は庇護したのである。
秀家の潜伏生活は2年2ヵ月あまり続いたが、突然終わりが訪れた。慶長8年(1603)、島津氏と家康との和睦が成ると、秀家は家康に引き渡されることになった。
これは、和睦を結んだ条件の一つだったと考えられる。しかし、島津氏は秀家が死罪にならないよう嘆願したので、辛うじて秀家は死罪を免れたのである。
秀家は「奥州の果て」に流罪になることを恐れていたというが、最初に秀家が送られたのは駿河国久能(静岡市駿河区)だった。ところが、これは一時的な滞在で、家康は最初から秀家を八丈島に流そうとしていた(『板坂卜斎覚書』)。
慶長11年(1606)、秀家は八丈島に流された。八丈島での生活は厳しく、秀家は前田家や旧臣らの支援によって、辛うじて生き永らえた。秀家が貧しい生活を送っていたエピソードは、たくさん残っている。
秀家は本土への帰国を望んだが、それは最後まで叶わなかった。明暦元年(1655)、秀家は望郷の思いを抱きつつ八丈島で亡くなったのである。秀家の子孫が本土に戻たのは、明治維新後のことだった。
主要参考文献
渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)