徳川家康は全国の主要鉱山を支配し、江戸幕府の財政基盤を強化した
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と豊臣秀頼との関係が描かれていた。慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。同時に、家康は全国の主要鉱山を支配し、江戸幕府の財政基盤を強化したので、その辺りを詳しく考えることにしよう。
豊臣秀吉は自らの財政基盤を強化すべく、各地の主要な都市を支配下に収め、全国に蔵入地(豊臣政権の直轄領)を設定した。蔵入地に納入された米は、主要な都市で換金され、その収入は大坂城の蔵に納められた。
実は、豊臣家の財源は都市や蔵入地だけではなく、全国の主要な鉱山をも含まれていた。当時、それらの鉱山から産出された銀は、世界に流通しており、貴重な財源となったのである。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、家康は重要な鉱山の直轄化を行った。家康は佐渡金山、大森銀山(石見)、生野銀山、黒川金山(甲斐)などを配下に収め、幕府の財政基盤の強化を行ったのである。
鉱山経営を任されたのが、もとは猿楽師だった大久保長安である。天正18年(1590)に家康が関東に入部すると、長安は武蔵国八王子(東京都八王子市)に陣屋を構え、伊奈忠次ととともに直轄地支配、知行割、検地などを担当した。徳川家の関東支配の一翼を担ったのだ。
長安がもっとも得意としたのは鉱山経営で、最先端の甲州流の採鉱技術を駆使し、各地の鉱山の経営・開発を行った。その配下には、鉱山の採掘を担当する有能な山師が存在したのである。
さらに、長安は中国やメキシコから積極的に新しい技術を取り入れ、鉱石の産出量の増産に成功した。長安の活躍により、徳川家の財政基盤は安定したのである。鉱山の直轄領化は、主要都市の掌握とともに、江戸幕府の財政基盤を築くための重要施策に位置付けられよう。
本来、諸大名への所領宛行、京都など主要都市の支配、鉱山の直轄化、天下普請などは、おおむね豊臣政権の権限だった。家康は秀頼を支えるという名目を掲げつつも、豊臣政権が持つ諸権限を吸収・掌握することで、徐々に勢力基盤の強化に努めた。
関ヶ原合戦後、家康は豊臣政権の持つ諸権限を収奪し、来るべき江戸幕府の権力基盤としたのである。同時に、家康は関東を差配する一大名から、秀頼に代わって西国支配も掌中に収めたといえよう。こうして、豊臣政権は凋落したのである。
家康は豊臣政権の諸権限を収奪することで、江戸幕府の権力基盤を強固なものにした。一方で家康は、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなどし、友好な関係を保った。つまり、当初から豊臣家を滅ぼす意図がなかったことには、十分に注意すべきだろう。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)