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黒田如水は「九州の関ヶ原」で活躍したが、天下を取れなかった当たり前の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田如水。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」は、関ヶ原合戦の場面だったが、黒田如水の「九州の関ヶ原」における活躍は描かれていなかった。一説によると、如水は家康に勝てるだけの実力があったので、実は天下取りを狙っていたというが、それが事実なのか考えてみよう。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の当時、如水は家督を子の長政に譲っていた。如水と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人から恐れられた天才軍師だったといわれている。

 しかし、それは後世に成った二次史料の記述を大袈裟に膨らませた事実無根の妄説に過ぎない。3人の天下人にとって、わずか十数万石しか領していなかった如水など、取るに足らない存在だったに違いない。

 実は、如水も家康と結んだ約束が反故にされ、恩賞を与えられなかった1人である。同年8月25日、井伊直政は長政に書状を送り、如水が九州での自由な軍事活動と切り取った領地を自分のものにすることを許した(「黒田家文書」)。九州では西軍勢力が盤踞していたので、家康は如水に征伐を期待したのだ。

 同年9月16日付の如水書状(藤堂高虎宛)には、切り取った領地を自分のものにしたいと書かれている(『高山公実録』所収文書)。如水の希望は、家康に承諾されたと考えてよい。後世に成った二次史料によると、如水は最終的に家康を打ち負かし、天下を取ろうとしたとまで書かれている。

 いざ戦いははじまると、如水は予想以上の戦果を挙げた。西軍の大友吉統は降参し、目的だった豊後の支配権を得られず捕縛された。

 如水は九州の西軍勢力を一掃した勢いに乗って、そのまま薩摩の島津氏を討伐しようとした。しかし、いよいよというときになって、家康からストップが命じられたのである。こうして如水の「九州の関ヶ原」は終わったのである。

 とはいえ、戦後、長政には筑前一国が与えられ、如水とともに西軍と戦った加藤清正も肥後一国を支配することになった。黒田家は、約52万石の大大名になったのだ。ところが、如水が家康から認められた九州での「切り取り自由」は反故にされたのである。如水は無念だったに違いない。

 家康は多くの味方を募るため、「加増」、「切り取り自由」の空手形を乱発した。それは、諸大名の奮起を促すためでもあった。如水や伊達政宗(百万石のお墨付き)の夢と希望は露と消えたのであるが、そこは家康が一枚上手だった。

 また、二次史料には如水に天下への志があったかのように書かれているが、それは虚説に過ぎない。仮に、如水が家康と戦っていたら、滅亡に追い込まれたと考えられる。その実力差は、歴然としていたのだ。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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