徳川家康は畿内や京都市中を掌中に収め、豊臣政権の権限を奪取した
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の台頭する過程が描かれていた。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、家康は畿内や京都市中を掌中に収め、豊臣政権の権限を奪取した。その内容を取り上げることにしよう。
関ヶ原合戦後、家康は豊臣政権の権限を奪うかのごとく、数々の政策を行った。まず、家康は奥平信昌を京都所司代に任命した。京都所司代の職務は、京都市中の治安維持、禁中・公家に関する政務の管掌、京都・伏見・奈良の三奉行の支配、京都周辺8ヵ国の訴訟の処理、西国の大名の監視などである。
家康は政権の基盤を江戸に置きつつも、畿内や京都の管轄権を掌中に収めることにより、本来は豊臣政権が持つ畿内およびその周辺の支配を行ったのである。
慶長6年(1601)に信昌が京都所司代の職を退くと、板倉勝重が後継者となり、以降、19年にわたって京都所司代の職にあった。この頃の京都所司代の職務は、反徳川勢力の制圧、および西国大名の統制など軍事的な性格が濃くなっていた。
慶長19年(1614)に豊臣方が不穏な動きを見せると、勝重が家康に報告を行ったのもその一つである。勝重の報告により、家康は問題に対処したのだから、京都所司代が西国支配の要だったのは明らかだ。この動きは、のちの大坂冬の陣につながったのである。
さらに、家康は堺、伊勢山田、長崎などの主要都市も配下に収めた。主要都市の多くは交通の要衝にあり、大きな経済圏を形成していた。都市の掌握は、鉱山の直轄化とともに重要性な施策の一つだった。重要な都市や鉱山に関しても、かつては豊臣政権が掌中に収めていた。
慶長7年(1602)5月、家康は上洛時の宿所とするため、二条城の築城を決定した(『時慶卿記』など)。大宮押小路に築城の場所を定めると、町屋の立ち退きを要求して着々と準備を進めた。同年12月、家康は西国諸大名を工事に動員し、造営費用や労務の負担を求めた。
中井正清が二条城が作事(建築)の大工棟梁の担当となり、京都所司代の板倉勝重が造営総奉行を任された。二条城の築城が、家康による天下普請の萌芽であり、諸国に工事を要請し得る立場にあることを世に知らしめたのである。
同年6月、家康は諸大名を工事に動員し、伏見城を再建した(『当代記』など)。伏見城は関ヶ原合戦時の損傷により、大規模な修繕が必要だった。
家康は天下普請で諸大名に負担を割り当て、伏見城を再建したのだ。同年末、伏見城下や大名屋敷も整備され、家康は伏見城に入った。二条城の築城、伏見城の再建は、家康による畿内支配の布石だった。
こうして家康は、豊臣政権の諸権限を奪い、同時に諸大名を天下普請に動員することで、権力基盤を構築した。そして、慶長8年(1603)には念願の征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いたのである。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)