方広寺鐘銘事件が勃発。徳川家康が不快に感じたのは「国家安康」の文言だけではなかった
大河ドラマ「どうする家康」では、ついに方広寺鐘銘事件が勃発した。しかし、徳川家康が不快に感じたのは「国家安康」の文言だけではなかった。ほかに何が問題になったのか、考えてみることにしよう。
そもそも方広寺に大仏殿が再建されたとき、もっとも問題となったのは、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」、「国家安康」という二つの文言だった。前者は領主から民に至るまで豊かな楽しい生活を送るという意味で、後者は国政の安定を願うことを意味した。
しかし、家康はこの文言を不吉であると考え、強い不快感を示した。その理由とは、前者が「豊臣」を主君として楽しむ意であると疑い、後者が「家康」の二文字を分断して配置し呪っていると考えたからだ。実は家康が不快に感じたのは、それだけではなかった。
慶長19年(1614)7月21日、家康は大仏鐘銘に「関東に不吉の語」があり、しかも上棟の日が吉日でないと立腹の意を豊臣方に表明したが(『駿府記』)、この時点では鐘銘のどの箇所が不吉なのか指摘していない。
一方、豊臣方の片桐且元は、8月18日に豊国神社の豊国臨時祭にあわせて、8月3日に開眼供養と堂供養を催したいと要望した(『駿府記』)。豊国臨時祭では、秀吉の十七回忌が執り行われる予定だった。
それでも家康の主張は変わらず、大仏供養の棟札と鐘銘に問題があると強い不快感を示した。棟札とは棟上げのとき、工事の由緒・年月・建築者・工匠などを記して棟木に打ちつける札のことだ。
そして、大仏開眼供養と堂供養を別の日に実施するよう迫った(『駿府記』)。家康の意向を受けた崇伝は且元に書状を送り、上棟、大仏開眼供養、堂供養を延期し、改めて吉日を選んで実施するよう要請したのである(『本光国師日記』)。
その後、大工頭・中井正清が鐘銘の写しを家康に送り、問題が明らかになった。鐘銘には東福寺の長老・文英清韓が撰した「国家安康」の4文字があり、家康はこれを不快であるとしたうえで、ほかの文章にも不愉快な箇所があると指摘した。
さらに数日後、家康は棟札にも強い不快感を示し、棟札は東大寺のものを参照するよう主張した(以上『駿府記』)。上棟と棟札の苦情の件は、中井正清が家康に入れ知恵したと指摘されている。豊臣方は家康の苦情に振り回され、供養の準備に専念できなくなっていた。
鐘銘を撰した文英清韓は伊勢国安芸郡の出身で、江戸初期の臨済宗の僧侶である。慈雲大忍(一説に文叔清彦)の法を嗣ぎ、伊勢国の無量寿寺に住した。のちに加藤清正の帰依を受けて九州に下向し、文禄・慶長の役に随行した。
慶長5年(1600)には東福寺の第227世となり、4年後には南禅寺に昇住した。漢詩文に優れ、五山の碩学として知られており、申し分のない経歴の人物だ。家康は京都五山の僧侶を動員し、内容の十分な吟味を申し付けた。凄まじい執念である。
この間、家康の側近・本多正純と崇伝は、且元に書状を送っていた。内容は「鐘銘のことを知らないような田舎者(清韓)に命じ、不要なことを長々と書き入れている」とし、「棟札には棟梁の名前も書き記していない」と厳しく非難した(『本光国師日記』)。
その後、興福寺南大門などの棟札を確認すると、棟梁の姓名が記していたので、家康は棟札に棟梁の名前を書くよう命じたのである。
こうして家康は「国家安康」の文言への非難を開始し、その後さらに棟札の問題にまでケチを付けた。豊臣家は家康の苦情に対処せねばならず、徐々に窮地に追い込まれたのである。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)