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関ヶ原合戦で東軍の勝利に貢献! 徳川家康から隠居を慰留された本多忠勝の晩年

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大多喜町の良玄寺にある本多忠勝・同夫人・忠朝墓所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川四天王の面々が次々と死去し、その中には本多忠勝も含まれていた。忠勝と言えば、その武勇で知られているが、その晩年について取り上げておこう。

 忠勝が有名なのは、生涯を通じて57回の合戦に出陣したが、かすり傷一つすら負わなかったというエピソードである(『藩翰譜』など)。これは、諸書で紹介されており、人口に膾炙しているだろう。

 むろん、この逸話は史実か否か疑わしく、今となっては確かめようがない。大怪我はしなかったかもしれないが、戦場で怪我をしなかったというのはあり得ず、忠勝を顕彰したものにすぎない。

 忠勝の代名詞ともいえる槍は、「蜻蛉切」(藤原正真作)である。「天下三名槍」の一つでもある。「蜻蛉切」は約6メートルの長身の槍で、蜻蛉が槍の穂先に止まったとき、そのまま真っ二つに切れたことから名付けられたという。

 鹿の角をあしらった脇立がある兜の「鹿角脇立兜」、着用した当世具足「黒糸威胴丸具足」も非常に有名である。この兜や具足は、忠勝のトレードマークとなった。

 忠勝は二代将軍の徳川秀忠から、「三国黒」という名馬を与えられたといわれている。「三国黒」の体長は「9尺(270センチメートル)」だったというが、これは大き過ぎるので誇張したものだろう。

 関ヶ原合戦に出陣した忠勝は軍勢を率い、「三国黒」に乗って戦場に向かった。忠勝は「三国黒」を操り、戦場で指揮を取ると、やがて西軍の島津義弘、宇喜多秀家の陣営に攻め込んだのである。

 しかし、忠勝の愛馬「三国黒」が戦闘中に銃撃を受け(一説によると矢を受けたとも)、不幸にも死んでしまった。忠勝は愛馬の死を悲しむ間もなく、必死に戦場で戦ったという。

 忠勝の孤軍奮闘を見た梶勝忠(忠勝の与力)は、自分の馬を忠勝に差し出し、その窮地を救ったという。のちに勝忠は桑名藩の家老となり、藩主となった忠勝を支えた。忠勝の死に際しては、殉死したのである。

 戦後、忠勝は伊勢桑名(三重県桑名市)に10万石を与えられた。もとの上総大多喜(千葉県大多喜町)5万石は、次男の忠朝に与えられた。

 桑名に入った忠勝は、ただちに城の改修を行い、城下町や東海道の宿場町を整備した。しかし、慶長9年(1604)頃から眼病を患い、徳川家康に隠居を申し出たが、慰留されたと伝わっている。

 忠勝が正式に引退し、子の忠政に家督を譲ったのは、慶長14年(1609)のことである。そして、忠勝が桑名で亡くなったのは、翌年の10月18日のことだった。享年63。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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