支配下→育成→戦力外→裏方→独立リーグ⇒NPB復帰〜破天荒な古村徹(DeNA)を支えた三つの思い〜1
11月20日、横浜DeNAベイスターズは古村徹投手(富山GRNサンダーバーズ)と2019年シーズンの選手契約を結んだことを発表した。
支配下選手としてプロ野球界に飛び込んだが、肩の故障で1年後には育成選手になった。入団3年で選手契約は終了し、記した公式記録はわずか1試合の登板。それもイースタン・リーグだ。
そして裏方としてチームに残った。それまでは相手に打たれないことを目指してピッチングをしていたのが、味方に“打ってもらう”ことが仕事の打撃投手として。
だが、一念発起して選手復帰を目指した。独立リーグで頭を打ったり回り道をしたりしながらも、たどり着いた150キロの境地。
いや、「150キロ」という球速はほんの“名刺”がわりで、それ以上に確かな手応えを手にした。NPBにかつて所属していたころとは比べものにならないくらい、投手として何段階もバージョンアップしたことがポイントだ。
(これまでのいきさつ⇒「戦力外から裏方、そして再びプロ野球選手へ」【前編】 【後編】)
そして、念願のNPB復帰を果たした。
小説でも漫画でも映画の世界の話でもない。いや逆に、小説や漫画、映画ではそんな夢物語、ぶっ飛びすぎて描こうとしないだろう。
それをリアルに実現した男がいる。古村徹。横浜DeNAベイスターズを去ってまた、ベイスターズに帰ってきた。
誰も成し遂げたことがない。前代未聞、前人未到、まさに破天荒である。古村投手はなぜそれを可能にしたのか。「ただ挑戦したいだけでは、ここまで来れなかった…」。
そこには三つの思いがあった。
■一つ目は「反骨心」。西清孝さんの言葉
まず、一番に強調するのが「反骨心」だ。
ある出会いがあった。現在、中日ドラゴンズの打撃投手を務めている西清孝さん。
西さんは1984年にドラフト外で南海ホークスに入団、1990年のシーズン途中に広島東洋カープにトレード移籍した。1993年に戦力外を通告されるも、横浜ベイスターズのテストを受けて打撃投手兼選手として入団した。
翌年、選手登録はされたが打撃投手に専念して公式戦登板はなく、その翌1995年にウエスタン・リーグで選手復帰を果たした。
そして1996年にとうとう1軍で復帰初登板し、1997年にはプロ初勝利を挙げた。この年は自己最多の58試合に登板して防御率2.55という好成績を修めた。さらには1998年にはチームの優勝に大きく貢献した人物である。
古村投手が打撃投手になることを決意した2014年の年末、ゴルフコンペで話す機会のあった木塚敦志コーチから「必ず選手に復帰したいという思いが出てくるよ」と言われた。何か感じるものがあったのかもしれない。
「もし、選手として活躍できなかったという不完全燃焼のものを抱えているならば、こういう人がいるよ」と教えられたのが西さんだった。「春キャンプで声かけてみろ」との助言に従い、沖縄・北谷での練習試合で挨拶に行った。
「薄々は聞いていたよ。時間があったら食事して話そう」と言ってくれた西さんとの、その機会が実現したのは夏前だった。打撃投手としての調子もすぐれなかった古村投手は、そのアドバイスももらいつつ、選手復帰に向けてやるべきことも教わった。
「なるべく18.44mに近づけて投げること。そうして肩を慣らすことが大事だよ」。
通常、打撃投手はマウンドの前、打席に近い位置から投げるのだ。そうではなく、できるだけ本来の位置から投げるように言われた。西さん自身も復帰前、それを実行していたのだ。
ここで衝撃的な一言があった。「見返してやりたいという思いを持ったほうがいいよ」と。
「裏方として獲ってもらったという感謝」より、「選手としてクビと言われたことを心に刻め」ということだった。西さんもそういう思いを持って復帰に向けて努力されたのだろうということは、容易に察することができた。
経験者だからこその重みあるその言葉は、古村投手の胸の奥深く響いた。そしてその後、心が折れそうなとき、萎えそうなとき、ことある毎にその言葉を噛み締めた。
■さまざまな悔しさ
悔しい思いなら山ほどしてきた。選手としてベイスターズをリリースされたこと、最初に当たったBCリーグの球団に断られたこと、合意の上とはいえ愛媛マンダリンパイレーツから戦力として見限られたこと…。
また、選手復帰したいと決意し、それを口にしたとき「9割の人に反対された」こともそうだ。当時の寮長や一緒に裏方をやっていた人たち…彼らにすれば、古村投手のことを思うがゆえの反対ではあっただろうが、その力がないと思われていることに唇を噛んだ。
さらには、かつてのチームメイトの活躍も「なによりの刺激になる」と、奮起するためのガソリンとなった。特に同期入団で同級生の桑原将志選手や乙坂智選手らの1軍での躍動は、悔しさとともに気持ちを奮い立たせてくれた。
自身が退団したあとのクライマックス・シリーズや日本シリーズ出場などのチームの躍進には「自分がいなくなって強くなるなんて、僕が足かせになってたのかって思ってしまう…」と、心穏やかではいられなかった。「負けろ、負けろ」と願ってしまう自分がいた。そしてそれは、本当につらいことだった。
「なにがなんでも選手復帰、そしてNPBに返り咲いて、すべてを見返してやる!」
その反骨心は間違いなく古村投手の大きな原動力となった。(2に続く)
【古村 徹(こむら とおる)】
茅ヶ崎西浜高⇒横浜DeNAベイスターズ⇒愛媛マンダリンパイレーツ(四国アイランドリーグ)⇒富山GRNサンダーバーズ
1993年10月20日(25歳)/神奈川県
180cm 78kg/左投左打/B型
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