テッペンとったる!横浜DeNAベイスターズ・山本祐大選手の旅立ち
■新年のスタートは古巣・大正リトルシニアのグラウンドから
元日は毎年ここからスタートする。それはプロに入った今年も変わらない。
2018年1月1日。横浜DeNAベイスターズの山本祐大選手は、幼稚園のころから慣れ親しんだ大正リトルシニアのグラウンドで始動した。
新年最初に打つボールは、テープでぐるぐる巻きに補修されたボールだ。「(このボールは)“伝統”です」。そう言って白い歯を見せた。
入寮すればすぐに合同自主トレが始まる。それに向けて年内は走り込みも増やし、十二分に追い込んできた。年が明けてからもランニング、キャッチボール、ティーバッティング、スローイングに汗を流した。体もやや大きくなり、風貌もほんの少し大人びてきたように見える。
「指名されてから、いろんな人に『おめでとう』『がんばってね』と声をかけられる。注目されているのを感じる。やることは一緒でも、肩書きがプロ野球選手になった。見られてると思って行動しないと」。プロになった実感と自覚がじわじわと湧いてきている。
■「オヤジを抜かしたい」―負けじ魂で食らいついた子ども時代
このグラウンドに初めて足を踏み入れたのは3歳のころだったか。大正リトルシニアのコーチになった父に連れてこられた。
父はとにかく厳しかった。まだ小さい祐大少年を中学生の練習に放り込み、ついていけず泣き叫んでも容赦はしなかった。
「周りから見たら、『よう続けたな』って思われてたと思う」。泣きながらも年上のお兄ちゃんたちに食らいついていった。
「負けん気が強かったのと、オヤジが野球うまいのはわかってたんで、オヤジを抜かしたいっていうのがあった」。山本選手は懐かしそうに答える。
父・芳仁さんは大分の強豪校で1年生ながら甲子園に出場し、社会人までプレーした。男の子が生まれたら自身の名前から一文字とって「仁(じん)」と名づけたかったという。
しかし生まれてきた我が子の顔を見て、「これは仁じゃないな、と。あまりにも優しい顔をしていたのでね」と笑う。(そのあと生まれた弟に「仁」という名は授けられた)
「子どもに野球をやらせたいとは、全然思ってなかったんですよ。厳しいのは知っているから」。芳仁さんはそう話す。しかしその環境から、山本選手は自然と野球に入っていった。
「本人がやりたいと言うから、それならやらせようと」と話す芳仁さんが課したのは、「自分でやると言ったことは最後まで必ずやれ」ということだった。
「5歳のときかな。中学生と一緒にベースランニングするって言ったんです」。一塁まで7本、二塁まで5本、三塁まで3本、そして最後にホームまでのダイヤモンド一周が1本だ。中学生に混じって、必死についていったという。
その後も、泣きはするが決して辞めるとは言わない。本人がそこまでやりたいなら応援しようと決めた。やるなら一番いい環境で―。
いつしかプロ入りは父子の夢になった。
しかしプロを目指すからといって、野球の技術だけを伸ばすことには芳仁さんは反対だった。いつも口酸っぱく言ってきたことがある。
「『技術は二流であれ。精神は一流であれ』。この言葉をわたしも言われてきた。野球の技術以前にまず挨拶、返事。そして道具を大事にすること」。芳仁さん自身が大切にしてきたことだ。
その中で、我が子の自主性を重んじた。「あいつは何でも自分で決めるんです。高校も自分で決めてきた」。寮生活となる京都翔英高校は芳仁さんも納得だった。
「寮は先輩にももまれて社会勉強もできるしね。早く出したかった」。
15歳で親元を離れていった。
■浅井監督に教わった「やるからには上を目指せ」
この京都翔英高で山本選手は「一番の恩師」ともいえる人に出会う。高校2年秋に就任した浅井敬由監督だ。「浅井監督がレギュラーに固定してくれた」と、自分を認めてくれた人だ。
「技術面で怒られたことはなかったけど、常識とかそういうのは厳しかった。ゴミ落ちてるのに拾わへんとか」。
その指導方針の根底に流れているものは、父の教えに通ずるものがあった。
その浅井監督から常に言われていたのは「やるからには上を目指せ」ということだった。「ボクの中にその言葉はずっとある。やるからにはテッペン目指そうと」。テッペン―つまりプロ野球選手になりたいという夢は、もはや目標になっていた。
山本選手の行動の指針には「やるからには上を目指す」がある。だから進学が決まっていた大学も、野球部の練習に3日参加して辞めることを決めたという。2月の頭だった。
決してその大学の野球部を否定しているのではない。「ボクが思っていたのとは違った」のだ。自分が「上を目指す」には、「ここではない」と感じたのだ。
ただ、「辞める」というのは本人だけの問題ではなくなってくる。周りの人々はみな「大学に戻れ」と言う。
しかし、じっくりと話を聞いた芳仁さんの考えは違った。「あいつは辞めると言ったら辞める。自分で決めるやつ」。プロを目指すための我が子の選択を尊重した。
父自ら各方面に頭を下げるとともに、「大学を辞めるからには、とことん野球に打ち込め」と練習以外の外出を禁じた。それだけの覚悟が必要なことだと父は説き、息子もそれに応えた。その時点では次の所属先のアテはなく、終わりの見えない自分との戦いが始まった。
4月末に独立リーグの滋賀ユナイテッドに入団が決まるまで、山本選手は友だちの誘いにはいっさい応じなかったという。ただただ家とグラウンドを往復するだけという野球漬けの毎日を送った。
■浅井監督にいい報告ができるように
そして夢を叶えた。昨年のドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから9位指名を受け、プロ野球選手となった。
しかし残念なことに、自分の指標となる言葉を授けてくれた一番の恩師・浅井監督は、山本選手のプロ入りを見届けることなく帰らぬ人となってしまった。一昨年の11月30日、突然の訃報だった。
実はまだ、プロ入りを墓前に報告できていない。自分の中で決めている。報告するのは今じゃない。今年末に横浜から帰阪するとき、浅井監督が眠る名古屋で途中下車しよう、それまで今年一年ガムシャラにがんばろう、と。浅井先生もきっとそれを待ってくれているはずだ。
山本祐大、19歳。今年から念願のプロ野球選手、横浜DeNAベイスターズの一員だ。きょう1月7日に入寮し、プロ第一歩を踏み出す。
目指すのは、プロでのテッペンだ。
《入団祝賀会》
昨年11月26日に開催された大正リトルシニアによる入団祝賀会には恩師、先輩、チームメイト、後輩…が大勢かけつけてくれた。
(ちなみに、大正リトルシニアは広島カープの西川龍馬選手も輩出しているチームである)
みなさんの声を一部紹介しよう。
【国本英三さん(大正リトルシニアの監督)】
「性格はおとなしく耐えるタイプ。ほとんどのポジションをやってきて最後にキャッチャーになった。野球をよく知っている。頭で野球ができる。真面目でコツコツやるタイプ。コツコツやる子が最後は勝つ。そういう教え方をしてきたので、プロ入りはとても嬉しい。お手本として、これからも後輩たちには言い続けたい」
【酒井政志さん(京都翔英高のコーチ)、前田雅大さん(京都翔英高のコーチ)】
「入学してきたときから、肩はとにかく強かった。ただ、小さく細かったから、こんなになるとは…。高校3年間で伸びたところといえば、心ですね。2年までは嫌なことは嫌だったけど、3年になって寮長をさせてからは嫌なことを率先してやるようになった。40人近い部員の掃除を見たりして、責任感が芽生えた。人を引っ張るためには自分がやらなあかんと思ったようだ」
【高田浩さん(大正リトルシニアのスコアラー)】
「おとなしい子やった。おとうさん、おかあさんの後ろについてきて。野球に対して真面目。でも並だったから、プロ入りって聞いて『ウソやろ?』って(笑)」
【山本仁くん(3歳下の弟。京都翔英高1年)】
「兄貴は家では明るくてムードを盛り上げてくれる。外に出たら真面目。プロって実感なかったけど、周りから言われて『あぁ、行くんやなぁ』って感じ。でもボクのほうが肩も強いし足も速いので、ボクもプロに入って兄を超えます!」
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