小林宏之と伊藤智仁から投球の極意を伝授された男―富山の守護神・菅谷潤哉投手《2018 ドラフト候補》
■“ラストオーディション”で自己最速の152キロ
「52出ました!」―。
マウンドから降りてきた菅谷潤哉投手は、満面の笑みで額の汗を拭った。上気した表情からは満足感が伝わってくる。
「52」とは球速の152キロ。菅谷投手にとって自己最速となる数字だ。それを、これ以上ない舞台で叩きだした。
ドラフトに向けての最終アピールの場であるBCリーグ選抜チーム対NPBファームの試合。それは鳴尾浜球場での阪神タイガース戦でのことだった。
菅谷投手の満足気な笑顔のわけは、もちろん自己最速の球速が出たことにある。だが、それだけではない。それ以上に「やろうとしてきたこと」が体現でき、それが数字となって顕れたことによる手応えがもっとも嬉しかったのだ。
「今年一番しっくりきた」。この言葉に集約されている。どうやら“未開の地”に足を踏み入れることができたようだ。
■「チーム向上心」で教え合い、刺激し合う
このBC選抜試合は、菅谷投手に新しいものを授けてくれた。これまでほぼ交流のなかった東地区(FUTURE―East)の投手とさまざまな話ができたのだ。おもには武蔵ヒートベアーズの安河内駿介投手、新潟アルビレックスの長谷川凌汰投手だ。
安河内投手と長谷川投手はシーズン中からLINEなどでピッチングについて語り合ってきたという。「こういうときはどうしたらいいのか」、「こんなトレーニング法があるよ」…いいと思うものはお互いにシェアしてきた。
そこへ菅谷投手も交ざり、彼らのさまざまな理論や技術論を貪欲に吸収した。向上心の塊である菅谷投手にとって、それは夢のような時間だった。「投げてる感覚とかいろんな話を聞いて、自分にない感覚があるなっていうのがわかって…」。このとき教わったのがバランスだ。
「これまではどっちかっていうと指先を意識してたけど、バランスを意識した。長谷川がそうしてるって言ってたんで。軸足に重心を乗せて、下と上のバランスで投げる。キャッチボールから重心を後ろにというのを意識してやってみたら、ブルペンでも感触よかったし、意図したところに投げられた。今日は150以上投げられるだろうなって感じた」。
初戦の東京ヤクルトスワローズ戦で教わり、その後に試したが、すぐには会得できなかった。NPB球団の個別のテストも受けたが、そのときも上下が噛み合わなかった。以来シャドーピッチングを繰り返し、ようやくここでその成果が出た。選抜試合で積極的に他球団の選手と交流したことで、またひとつ成長できたのだ。
さらにチームメイトの古村徹投手(横浜DeNAベイスターズ―愛媛マンダリンパイレーツ)からのアドバイスもすぐに活かせた。タイガーズ戦の動画を見た古村投手に「肘が下がってるよ」との指摘をもらい、すぐに修正した。翌日のバファローズ戦で意識して肘を上げて投げたことで、変化球を低めのゾーンにしっかり投げられた。
聞く耳を持つ素直さと、すぐに修正できる能力が備わっている。
■原点となった大学時代のケガ
いい球を投げたい。いいピッチングがしたい。野球がうまくなりたい―。投手ならば、野球人ならば誰もが抱く思いだ。
それに対してどこまで貪欲にストイックに取り組めるか。菅谷投手にはそれができる。「努力できる才能」を持っている。その原点は大学時代に遡る。
福井工大福井高から帝塚山大に進学するも、入部早々オープン戦で肘を痛めてしまった菅谷投手。リハビリは思ったより長引いた。いいと聞くと、どこへでも出かけて診てもらった。さまざまな病院を訪ねたが、なかなか回復しない。少しよくなったかと思いキャッチボールを再開すると、また痛みが出て…を繰り返し、肘も伸ばせず10mも投げられなかった。
「最初の一年は、何度もやめようと思った」。
しかしやめなかった。やめられなかった。自分のために病院を探し回ってくれた家族、「普通なら見捨てられてもおかしくないのに、『必ず戻ってこい』って言ってくれた」という大学の監督やコーチ。そういった周りの人たちの支えや励ましに応えたかったのだ。
「そういうのを無駄にしたら男じゃない。その人たちのためにも野球を続けないと。それに、せっかく野球をやろうと大学まで来たのに、こんなことで流されて腐ってしまうのは嫌だった」。
根気よくリハビリを続け、ようやく光が見えてきたのが大学3年秋のことだ。実に2年半もの時間を要した。
秋のリーグ戦で3イニング放った。しかし故障前145キロだった球速は140キロも出なかった。まだ少し痛みが残っていたのだ。
リーグ戦が終わったとき、考えた。「このままじゃ終わってしまう」―。そこで肉体改造に取り組んだ。週6日ジムに通ってウェイトに打ち込み、食事も工夫した。すべて本やネットなど独学で知識を得て追究したのだ。
その甲斐あって約70kgだった体はひと冬で15kg増に成功した。すると4年春には球速も140キロ半ばまで戻り、秋のリーグ戦では149キロまでアップした。肘も徐々に回復し、延長十回を完投できるまでになった。阪神大学野球連盟の二部東リーグで優勝、東西戦で勝って入れ替え戦に出場するも敗れ、そこで大学での野球は終わった。
話は前後するが、4年春のリーグ戦に当時の武蔵のGM・五十嵐章人氏が視察に訪れていた。実はお目当ては別の選手だったが、菅谷投手のピッチングがその目に留まった。先発して6回3失点して勝ち投手になった試合だ。そこで146キロが出た。
少しずつ投げられるようになってきた菅谷投手は、卒業後もまだまだ野球を続けたいと考えていた。まもなく大学野球は終わりを告げる。結果も残せていない。卒業後の進路を思案したとき「社会人ではなく、独立リーグからNPBを目指したい」、自身の中でそんな答えが出た。お世話になっていた母校の先輩・中西啓太選手(新潟)からBCリーグの話をよく聞かされていたことも影響を与えていた。
そこへタイミングよく武蔵からの誘いがきたのだ。念願どおり、独立リーグからNPBを目指せることとなった。
そのころ己を省みた菅谷投手は、自身の考え方が変わっていることに気づいた。「高校時代までは自分勝手だった。ケガせず全力でやれることが当たり前だと思っていた」。
しかし、ケガをして野球から遠ざかったことで自分を見つめ直す機会を得た。「ケガのおかげで野球に対する考えが根本的に変わった」と振り返る。ケガなく思いきり野球ができることの喜び、そして家族や周りの人々への感謝。また、「必ず這い上がってやる」という反骨心も芽生えた。
だからこそ、向上するための練習は厭わないし、いいと思ったら素直に貪欲に吸収できる。たとえ相手が年下でも、進んで教えを乞う。「努力できる才能」を手に入れたのだ。
■武蔵で「生涯の師匠」小林宏之監督に出会う
BCリーグではさまざまな出会いに感謝する。武蔵では今も師と仰ぐ小林宏之監督(千葉ロッテマリーンズ―阪神タイガース―群馬ダイヤモンドペガサス―信濃グランセローズ―埼玉西武ライオンズ、現在は千葉ロッテマリーンズ・ベースボール・アカデミーのコーチ)に一からフォームを教わった。
ターニングポイントとなった試合がある。昨年5月14日の滋賀戦だ。2番手でマウンドに上がった菅谷投手は、三者凡退に抑えた次の回で大きく崩れた。3四球を挟む6連打で一死も取れず、8失点で降板した。しかしそこに至るまで、小林監督は交代させなかった。考えがあったのだ。
菅谷投手はこう振り返る。「武蔵での前期の試合は最悪だった。まっすぐがストライク入らないし、力だけで投げてた。とにかくコントロールがめちゃくちゃで…。その中でもあれは、自分の野球人生で一番悔しい試合」。未だに忘れられない屈辱の試合だ。
しかし、だからこそ、それが分岐点となった。失意にうなだれる試合中のベンチで小林監督はこう言った。「オレに任せてくれ。オレの言うことだけ聞け」と。
そして翌日から「菅谷潤哉」という投手を作り上げる作業が始まった。それは全体練習の前から、また終わってからもさらに居残りで行った。
「キャッチボールからピッチング、すべて一からつきあってもらった。ボールの力の入れ方、変化球の投げるタイミング、技術的なことをいろいろ教わって、そこから徐々に自分の形がつかめてきた」。
たしかに大学時代はウェイトで球速は上がったが、力で投げているだけだった。バッターのレベルが上がると空振りが取れない棒球だった。
「フォームを改善して指先の感覚がわかってきた。それで後期はほとんど失点しなかった」。投手としての自分を一から作り上げてくれた小林監督は、菅谷投手にとって生涯、「師匠」と崇める存在だ。
■富山では伊藤智仁監督からスライダーを伝授される
富山に移籍した今季はまた新しい出会いに恵まれた。昨年までスワローズの投手コーチをしていた伊藤智仁氏(ヤクルトスワローズ―東京ヤクルトスワローズ)が監督に就任したのだ。「強いチームで投げてNPBにいきたいと思っていたし、またピッチャーの監督で嬉しかった」。菅谷投手にとっては願ったり叶ったりだった。
「伊藤監督には小林監督とはまた違う観点の話をしてもらった。まずスライダーの感覚、ボールのキレの話。ボクのスライダーは元々早く大きく曲がってスピードがなかったので、バッターに見切られていた。伊藤監督は手首の角度とかリリースの感覚とか、いろいろ案を出してくれた。その中から自分に合うものを試すように教わった」。
一口にスライダーといっても、人によってまったく違う。「乾さん(真大=北海道日本ハムファイターズ―読売ジャイアンツ)は、スライダーはまっすぐより強く振るそうです。『160キロくらい投げるつもりで腕を振れ』と」。
それを実践したところ、「完全にモノにはできてないけど、いいときは空振りが取れるようになったし、以前は出なかった130キロが出てキレが増した」という。そしてそれによってピッチングの組み立ての幅が広がり、奪三振が増えた。
もちろん伊藤監督の代名詞である高速スライダーも伝授はしてもらった。「握り方も教わって試したけど…次元が違って自分には投げられなかった(笑)。スライダーだけど、リリースのときにシュートのように指で切って回転をかける。ボクには難しくてできなかった」。恐るべし、“伊藤智仁のスライダー”。だからこそ、あれだけの一線級の活躍ができたのだろう。
さらに伊藤監督や乾投手にはメンタル面の話も多くしてもらったという。クローザーとしての気持ちの持ち方だ。
「点差が開いて投げるとき、自分だけの世界に入ってバッターと勝負できていないことがあった。それで点を取られて防御率を悪くしたことも。自分ではいつも緊張して変わらない感覚で投げてるつもりだけど、どこかでいらない力が入ってたのかも」。
「それと、点を取られた次の試合をどれだけ大事にできるか。取られたことは反省して、次にすぐ切り替える。そういったことをよく話してもらった」。
失点すると、どうしても落ち込む。先発の乾投手の勝ちを消してしまったことも2度あった。「そんなことは気にするな。ここは試せる場所なんだから、自分のことをやって結果にこだわれ」。乾投手からそう声をかけられたことが嬉しく、「それでメンタルも強くなれた」と感謝している。
「でもまだまだ。今の倍以上は強くならないと」。目指しているのは、さらなる高みだ。
ほかにも富山には前出の古村投手や新人の湯浅京己投手ら、レベルの高い投手陣が揃っている。「みんなそれぞれ自分に持っていない感覚を持っている。それを教わっていろいろ試してやってこれた。充実した年だった」。
年齢関係なく切磋琢磨し、相乗効果でチーム力を高め、後期優勝という結果を得ることもできた。ちなみに富山のチーム防御率3.78は西地区トップ(リーグ2位)である。
■即戦力としてアピール
投球フォームを作り上げ、まっすぐを磨き、変化球の精度を上げた。そしてこの選抜試合でまた新たな感覚「バランス」を得た。
こうして貪欲に自身のスキルアップに取り組んでこれたのは、やはり大学時代のつらさ、悔しさがあったからだ。「ケガのおかげ」と菅谷投手は笑うが、ケガをそんなふうに捉え、好転させられたのは、菅谷投手自身がもともと持っている強さとポジティブさゆえである。それは義理人情に篤く、どこか昭和の匂いがする温かい性格も無縁ではないだろう。
年齢的に“伸びしろ”を見てもらえるなんて、甘い考えはない。「即戦力じゃないと獲ってもらえないのはわかっている。だから結果にこだわってきた」。それだけに今季の成績には満足がいかず、悔しがる。もっともっとやれたはずだと己を責める。
しかし最後にNPBスカウト陣の目の前で十分にアピールできた。ピッチングの新境地を切り拓いた今、運命のときを待つだけだ。
(撮影はすべて筆者)
【菅谷 潤哉(すがや じゅんや)】
福井工大福井高⇒帝塚山大
1994年11月1日(24歳)/福井県
180cm 85kg/右投右打/B型
【菅谷 潤哉*今年度成績】
37試合 37・2/3回 2勝1敗11S 被安打30 被本塁打4 奪三振43 与四死球27 防御率4.54
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