1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校講師。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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- 徳川家康は畿内や京都市中を掌中に収め、豊臣政権の権限を奪取した
- 関ヶ原合戦後、牢人となった仙石秀範は、なぜ京都で寺子屋を開き、仕官活動をしていたのか
- 豊臣秀頼が往時の勢いを取り戻すことが不可能になった、深刻な理由
- 宇喜多氏の改易後、明石掃部ら大量に発生したキリシタン牢人の厳しい事情
- 関ヶ原合戦後、なぜ大量の牢人が発生し、大問題となったのか。その事情を探る
- 徳川家康は二条城で豊臣秀頼と引見し、自発的に臣従させることに成功した
- 関ヶ原合戦後、なぜ徳川家康は豊臣家をすぐに滅ぼさなかったのか。その真相を探る
- 関ヶ原から土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、余計なことをしたので改易された
- 関ヶ原から逃亡した宇喜多秀家は、八丈島に流されて無念の死を遂げていた
- 黒田如水は「九州の関ヶ原」で活躍したが、天下を取れなかった当たり前の理由
- 関ヶ原合戦後、豊臣秀頼の威勢は急速に下降したのか。その誤解を解く
- 関ヶ原合戦で東軍の勝利に貢献! 徳川家康から隠居を慰留された本多忠勝の晩年
- 関ヶ原合戦で大活躍! あまりに無念だった井伊直政の最期
- 伊達政宗は「北の関ヶ原」で大活躍したが、「百万石のお墨付き」を反故にされた理由
- 関ヶ原合戦後、徳川家康が東軍諸将を大幅に加増し、厚遇した当たり前の理由
- 九度山に逼塞していた真田信繁は、「打倒家康」の執念を燃やし続けていたのか
- 徳川家康に叱責された子の秀忠。秀忠は関ヶ原合戦でそんなに酷い大失態を演じていたのか
- 関ヶ原合戦後、上杉景勝は大幅に減封され、その責任はすべて直江兼続に負わせた
- 関ヶ原合戦後、徳川家康が豊臣秀頼に代わり、恩賞配分を行った当然の理由
- 豊臣秀頼と千姫の結婚には、徳川家康の特別な思いと意味があった
- 黒田長政は調略戦だけでなく、関ヶ原本戦で石田三成勢を蹴散らして西軍を瓦解させた
- 関ヶ原合戦後、増田長盛は生き延びたが、大坂夏の陣で自害して果てた
- 嶋清興(左近)は関ヶ原合戦で戦死したのか、それとも戦場を離脱して生き残ったのか
- 福島正則は関ヶ原本戦で宇喜多秀家を打ち破り、東軍を勝利に導いた
- 関ヶ原合戦で西軍が敗北したのは、島津氏の率いる軍勢があまりに少なかったからだった