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大坂の陣で豊臣家に味方したが、無念にも復活がならなかった3人の牢人とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 大坂の陣がはじまると、多くの牢人が復活を期して豊臣家に味方した。しかし、豊臣家は徳川家によって滅ぼされ、牢人たちの希望は潰えた。復活がならなかった牢人うち、3人を紹介することにしよう。

◎明石掃部(?~1615?)

 掃部は宇喜多秀家の旧臣であり、キリシタン武将でもあった。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に与した秀家が敗北すると、掃部は牢人生活を余儀なくされた。掃部は同じキリシタンだった黒田直之に庇護されたというが、その後の動静は不明である。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣がはじまると、豊臣家がキリスト教の布教を認めると約束したので、掃部は味方としたという。しかし、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡すると、掃部も戦死したというが、生き延びたという説も伝わっている。

◎長宗我部盛親(1575~1615)

 盛親は土佐一国を支配していたが、関ヶ原合戦で西軍に与して敗北し改易となった。改易後、盛親は京都で寺子屋で子供に学問を教えつつ、徳川家康に許しを乞うたが、結局は許されなかった。大阪の陣がはじまると、盛親は復活を期して豊臣家に味方した。

 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、盛親は逃亡生活を余儀なくされた。戦後、盛親は八幡(京都府八幡市)に潜伏していたところを蜂須賀氏の家臣に発見され、捕縛された。その後、盛親は京都市中を引き回にされると、六条河原で斬られたのである。

◎毛利勝永(1578~1615)

 関ヶ原合戦が勃発すると、勝永は父とともに西軍に身を投じたが、敗北して改易となった。勝永は父とともに加藤清正のもとに行き、その後は山内一豊に預けられた。一豊は2人を厚遇したが、大坂冬の陣が勃発すると、勝永は豊臣家に与した。

 大坂夏の陣では家康の本陣に突撃するなど、勝永は徳川家を相手に奮闘したが、敗勢が濃くなると大坂城に撤退した。いよいよ大坂城の落城が迫ると、勝永は切腹する豊臣秀頼の介錯を行った。秀頼の死を見届けた勝永は自害し、子や弟も自刃して果てたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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