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織田信長が近衛前久に暴言を吐いたので、明智光秀は信長討ちを決意したのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(写真:イメージマート)

 天正10年(1582)6月2日未明、織田信長は本能寺で配下の明智光秀に襲撃され、死に追いやられた。光秀が信長討ちを決意した理由については諸説あり、今も論争が続いている。その中には「信長非道阻止説」なるものがあるので検討しよう。

 「信長非道阻止説」とは、光秀が信長による数々の非道(正親町天皇への譲位強要など)を阻止するため、信長討ち(本能寺の変)を決意したという説で、小和田哲男氏が提唱した。

 近衛家は五摂家(ほかに一条、二条、九条、鷹司)の一つであり、前久は稙家の子として天文5年(1536)に誕生した。最終的には、太政大臣、関白まで昇進した。前久はたびたび改名するが、以下「前久」で表記を統一する。

 信長の台頭以降、前久は親交を深めていた。そんな信長は天正10年(1582)3月、ついに長年の宿敵の武田氏を滅亡に追い込んだ。戦後、信長が甲斐国へ向かった際、前久ら公家衆も同行した。ここで事件が起こったのである。

 信長が帰還する際、駿河を見ておきたいと考えた。そのとき前久は「私も駿河をまわってよいでしょうか」と馬を降りて信長に尋ねると、信長は馬上から「近衛、わごれなンどは木曽路を上らしませ」と言い放ったというのである(『甲陽軍鑑』)。

 信長は上位の太政大臣である前久に対して、近衛と呼び捨てにしたうえで、「わごれなンどは・・・」と言っているので、正気ではなかったという。正確な現代語訳がなされていないが、これは前久に対する暴言であり、光秀は許せなかったという指摘になろう。

 おそらく「わごれなンどは・・・」という表現が引っ掛かったのかもしれないが、これは親愛の意をあらわす人称代名詞である。つまり、「近衛様は木曽路をお上りになってくださいませ」という意であり、別に暴言ではない(原文で敬称が脱落した可能性があろう)。

 その前段には、前久が甲斐柏坂の麓におり、奏者を信長のもとに遣わせて申し入れたところ、信長から回答があったと記されている。信長は馬から前久を見下ろして発言したのではなく、奏者に対して答えたということになろう。いずれにしても暴言は当たらない。

 加えて言うならば、『甲陽軍鑑』は後世に成った編纂物なので、この話が史実なのか否かも検討を要しよう。

主要参考文献

小和田哲男『明智光秀 つくられた「謀反人」』(PHP新書、1998年)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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