あまりに評価が低くて、気の毒すぎる3人の武将とは?
歴史上の人物を正しく評価するのは難しく、ときに文学作品や編纂物などは、不当なほど低い評価をあたえることがある。あまりに評価が低くて、気の毒すぎる武将のうち、3人を紹介することにしよう。
◎平清盛(1118~1181)
清盛は我が国初の武家政権を樹立した人物であるが、その評価はすこぶる低い。とりわけ文学作品の『平家物語』では、傲慢な人物として描かれている。清盛の最期は悲惨なもので、猛烈な熱病に苦しんだ挙句、悶絶死した模様が描かれている(死因については諸説ある)。
とはいえ、清盛は才覚に溢れており、日宋貿易を進めたことで知られている。その性格についても、説話集の『十訓抄』によると、冬の寒い日に従者が風邪をひかないよう、自分の衣の裾に寝かせたという記述がある。良い評価は、後景に退いたようだ。
◎梶原景時(1140~1200)
景時は源頼朝に重んじられ、鎌倉幕府で侍所所司などを務めたが、その評価は決して高いとはいえない。『平家物語』には、源義経との逆櫓論争(船がバックできるよう逆櫓を付けるか否かの論争)の場面が描かれているが、これは史実ではない可能性が高い。
景時は義経を疎ましく思い、頼朝に讒言したので、義経が討伐される一因になったという。義経だけではなく、景時は畠山重忠らも讒言した。結局、あまりに讒言が過ぎた景時は討伐され、『吾妻鏡』には景時の傍若無人な態度が討たれる原因になったと書かれたのである。
◎源頼家(1182~1204)
頼家は頼朝の子として誕生し、鎌倉幕府の2代将軍に就任したが、その評価は散々なものである。北条氏が編纂に関わった『吾妻鏡』における頼家像は、まったくの暗君である。頼家は比企能員の助力を得ており、やがて北条一族(時政、義時、政子)と対立することになったことも原因だろう。
頼家は病に伏しているときに、後ろ盾となる比企一族が滅亡したので、その最期は悲惨なものだった。北条一族により弟の実朝が新将軍に擁立され、頼家は伊豆国修禅寺に幽閉された(その後、暗殺された)。頼家は北条一族と対立したので、悪しざまに書かれた可能性がある。
◎まとめ
以上の3人の武将に関する低い評価は、文学作品の『平家物語』や編纂物の『吾妻鏡』に書かれており、意図的に貶められた可能性が大いにある。近年の研究では、彼らについての見直しも進んでいるので付記しておきたい。