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関ヶ原合戦後、大幅な加増で大躍進した3人の東軍に味方した武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原。(写真:イメージマート)

 あけましておめでとうございます。せっかくの年頭は景気の良い話として、関ヶ原合戦後、大幅な加増で大躍進した3人の東軍に味方した武将を取り上げることにしよう。

◎蒲生秀行―18万石(下野・宇都宮)→60万石(陸奥・会津)

 秀行は氏郷の子として誕生し、父の死後に家督を継いだ。しかし、まだ若かった秀行は家中統制に苦労し、秀吉は事態を重く見たが、ついに状況が改善されなかった。慶長3年(1598)、秀吉は秀行の会津92万石を取り上げ、宇都宮に18万石を与えた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、秀行は東軍に属した。その際、秀行は当時会津を領し、徳川家康と交戦状態にあった上杉景勝を牽制することになった。戦後、その功が認められ、秀行は会津に60万石と大幅に加増されたのである。

◎加藤清正―19.5万石(肥後・熊本)→51.5万石(同)

 清正は清忠の子として誕生し、のちに豊臣秀吉に仕えた。秀吉に従って各地を転戦した秀吉は、熊本に19.5万石を与えられた。秀吉の死後、清正は徳川家康に急接近したが、庄内の乱で伊集院忠真を支援したことが露見し、その関係は悪化したといわれている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、清正は東軍に属すると、九州の西軍勢力との戦いに臨み勝利した。戦後、家康は小西行長の旧領を清正に与えた。これにより、清正は大幅に加増され、熊本に51.5万石を領する大名になったのである。

◎黒田長政―18万石(豊前・中津)→52.3万石(筑前・福岡)

 長政は孝高の子として誕生し、その存命中に家督を継承した。秀吉死後、長政は家康に急接近し、関ヶ原合戦においては、合戦前に毛利輝元、小早川秀秋らを調略することに成功した。もちろん、合戦の本戦でも大いに軍功を挙げ、東軍を勝利に導く立役者となった。

 戦後、長政は軍功により大幅に加増され、福岡に52.3万石を与えられたのである。実は、孝高も清正とともに東軍に属し、九州における西軍勢力の討伐で大いに貢献していた。黒田家の大幅な加増は、親子の協力によって実現したといえよう。

※武将の石高は、諸書により微妙な差異があります。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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