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織田信長が武田信玄から「第六魔王」と呼ばれた事情とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 織田信長と武田信玄は死闘を繰り広げたが、信玄は志半ばにして急逝した。かつて信長は信玄から「第六魔王」と呼ばれたことがあるので、その辺りについて考えることにしよう。

 元亀4年(1573)1月11日、信玄は上野秀政(足利義昭の側近)に書状を送った(『醍醐寺理性院文書』)。その中で注目すべきは、信長が2年前に比叡山を焼き払った事実を挙げ、「(信長は)天魔破句の変化なり」と信玄が書いていることだ。

 天魔破句とは、仏教の修行を妨げる悪魔、天上にいる悪魔で「第六天魔王波旬」を略した言葉といわれ、「他化自在天」、「第六天魔王」、「天子魔」などとも称される、一言で言えば、信長は仏敵だったということになろう。

 元亀3年(1572)、信玄はかねて敵対していた信長と徳川家康の軍勢を三方ヶ原で打ち破った。翌年、足利義昭は信長との関係が決裂したので、信玄に支援を乞うていた。信玄は信長と交戦状態にあったので、滅ぼすことを先の書状で伝えたのである。

 1573年4月20日付のルイス・フロイスの書状には、信長が信玄に送った書状に「ドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)」と署名したことが書かれている。

 前年、信玄は信長に「テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名して信長に書状を送ったので、信長はその返事の中であえて対抗し、「ドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)」と署名したという。

 『醍醐寺理性院文書』の信玄書状は写ししか残っておらず、文面に難があるように思えなくもない(『甲陽軍鑑』にも写しがある)。しかし、フロイスの書状にも似たようなことが書かれているので、決して無視できない情報である。

 ちなみに、信玄は「テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名したというが、もちろん信玄は天台座主ではなかった。いかんせん、信長と信玄のそれぞれが署名した書状が残っていないので、今後の課題といえるであろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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