織田信長に内通を疑われたり、失態を責められたりし、悲惨な目に遭った3人の武将とは?
織田信長は軍功を挙げた者には手厚かったが、そうでない場合は使い捨てにした。ましてや内通を疑われたり、失態を責められたりしたことは、大きなマイナスポイントになった。悲惨な目に遭った武将のうち、3人を取り上げることにしよう。
◎石黒成綱(?~1581)
成綱は上杉謙信に仕え、越中国木舟城(富山県高岡市)を居城とした。天正4年(1576)、上杉謙信が越中に攻め込んでくると、ただちに配下となった。しかし、謙信が亡くなると織田信長に従い、神保長住の配下となったが、その態度はあいまいだったという。
天正9年(1581)9月、成綱が上杉方に内通していると疑った信長は、近江国佐和山城(滋賀県彦根市)に出頭するよう命じた。成綱は粛清されると思い逃走したが、丹羽長秀の率いる軍勢によって、長浜(滋賀県長浜市)で一族ともども討たれたのである。
◎寺崎盛永(?~1581)
盛永は上杉謙信に仕え、越中国願海寺城(富山市)を居城とした。天正6年(1578)に謙信が亡くなると、石黒氏と同様に織田信長の配下となった。天正9年(1581)3月になると、盛永が上杉景勝(謙信の養子)と内通したことが露見した。
同年5月、信長の命を受けた菅屋長頼は願海寺城に攻め込み、これを落とした。翌月、盛永は子とともに近江国佐和山城に連行され、自害して果てたのである。子の喜六郎の最期は、見事だったという。盛永らが能登で切腹したという説もあるが、誤りである。
◎神保長住(生没年不詳)
長住は長職の子として誕生したが、越中をめぐる支配をめぐって、上杉派の父と対立した。その後、長住は京都で流浪生活を送った。父の没後、神保氏一族は反上杉の立場をとったという。天正6年(1578)に上杉謙信が没すると、反上杉の長住は織田信長に従ったのである。
以後、長住は軍功を挙げ、天正9年(1581)に悲願の越中国への入国を果すと、佐々成政に従った。翌年、上杉方に与した神保氏旧臣が長住の居城・富山城(富山市)に攻め込むと、長住は幽閉された。その後、長住は助け出されたが、信長は長住の失態に激怒し、追放したのである。