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黒田孝高(官兵衛)・長政父子に騙し討ちにされ、一族が惨殺された武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田孝高(官兵衛)。(提供:アフロ)

 黒田孝高(官兵衛)・長政父子といえば、大河ドラマ「軍師官兵衛」で話題になった。そこでは優れた人物として描かれていたが、城井鎮房を騙し討ちにしたことで知られているので、取り上げることにしよう。

 鎮房は城井谷城(福岡県築上町)の城主で、大友氏が衰退したあとは、島津氏に従うようになった。天正14年(1586)、豊臣秀吉が九州征伐(島津征伐)を開始すると、島津氏から離反して秀吉に味方した。

 しかし、鎮房は病気を理由として出陣せず、代わりに子の朝房を送り込んだ。朝房の軍勢は少なく、これが秀吉に不信感を募らせる一因になったという。秀吉が島津氏に勝利すると、豊前六郡(京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡の一部)は官兵衛に与えられた。

 天正15年(1586)、秀吉は鎮房に対して、伊予国に移ること、藤原定家の「小倉色紙」を差し出すように命じた。いずれも従い難い命令だったので、鎮房は拒否したのである。その結果、秀吉との関係が決裂した。

 その後、鎮房は毛利勝信の助言に従い、いったん城井谷城を差し出し、秀吉との交渉を試みようとしたが、すでに時遅しだった。結局、鎮房は城井谷城を奪還し、果敢にも秀吉に戦いを挑んだのである。

 同年12月、鎮房は本領安堵と娘を人質として差し出すことを条件として、降参することになった。父祖伝来の地を守りたかった鎮房は、ついに妥協したといえよう。しかし、長政は鎮房を警戒していた。

 天正16年(1587)4月、長政は鎮房を居城の中津城(大分県中津市)に招き寄せ、酒宴の席で殺害した。騙し討ちである。同行していた家臣は黒田氏の軍勢と交戦したが、すべて殺害されたという。

 城井谷城にいた長房(鎮房の父)は、黒田勢の攻撃により討ち取られた。朝房は孝高とともに一揆勢を鎮圧すべく、肥後に出陣していたが謀殺された。人質となった鎮房の娘は長政に捕縛され、侍女とともに磔刑に処されたのである。生き延びたのは、朝房の妻だけだった。

 孝高・長政父子が豊前に入封する際、在地勢力のかなりの抵抗があり、苦労したという。そのような状況の中で、不穏分子である城井一族を支配領域に抱え込むことにはリスクがあった。それゆえ、城井一族は討たれたのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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