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理由があり、家中を出奔して他の大名に仕えた3人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 現代社会でも転職は盛んであるが、戦国時代は突如として家臣が家中を出奔し、他の大名に仕えることがあった。その経緯や事情も含め、そのうち3人の武将を紹介することにしよう。

◎斎藤利三(1534~1582)

 利三は美濃国の出身で、松山新介、斎藤義龍に仕え、その後は織田信長の配下にあった稲葉一鉄に仕官した(与力という説もある)。しかし、一鉄は利三が軍功を挙げたのに十分な処遇をしなかったので、徐々に利三は不満を抱き、明智光秀に引き抜かれたのである。

 天正10年(1582)、さらに光秀は一鉄の家臣の那波直治を引き抜こうとした。一鉄は信長にこの件を訴えると、信長は直治を一鉄のもとに返すよう命じたという。一連の話は『稲葉家譜』などに書かれ、これが本能寺の変の原因だったというが、さらに検討を要しよう。

◎石川数正(1533~1592または1593)

 数正は三河国の出身で、徳川家康が幼い頃から仕えていた。天正10年(1582)以降、数正は羽柴(豊臣)秀吉の取次を担当した。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康が秀吉と戦った際、数正は和睦を家康に進言したといわれている。

 翌年、数正は徳川家中を出奔し、秀吉のもとに逃れた。出奔した理由については諸説あるが、和睦派だった数正が徳川家中に居づらくなった可能性もあろう。出奔後、数正は名を吉輝(「吉」は秀吉から与えられた)と改め、河内国内に8万石を与えられたのである。

◎藤田信吉(1559~1616)

 信吉は武田勝頼に仕えていたが、武田氏が滅亡した天正10年(1582)に滝川一益の配下となった。一益の没落後は、上杉景勝に仕官した。慶長5年(1600)1月、信吉は景勝の名代として、徳川家康に新年の祝詞を述べると、刀などを与えられた。

 折しも景勝は上洛して大老の役割を果たしておらず、越後堀氏とのトラブルもあって、家康との関係はあまり良くなかった。やがて、信吉は家康との内通を疑われ、上杉家中を出奔せざるを得なくなった。信吉が駆け込んだのは、徳川秀忠(家康の子)のもとだった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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