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3人の天下人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の正室、側室事情。その逸話などについて

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康には、正室のほかに大勢の側室がいたので、取り上げることにしよう。なお、側室の数については諸説あるので、あらかじめお断りしておきたい。

◎織田信長(1534~82)

 信長には帰蝶(濃姫/斎藤道三の娘)のほかに、11人の側室がいたといわれている。ところが、帰蝶の生涯は神秘のベールに包まれており、子はいなかった。側室の生駒家宗の娘は、嫡男・信忠、次男・信雄、娘の徳姫という3人の子に恵まれた。

 徳姫は松平信康(徳川家康の嫡男)と結婚したが、信康は自害に追い込まれた。本能寺の変で信長が亡くなると、信雄は弟の信孝(坂氏の娘の子)との関係が悪化した。信孝は信雄よりも早く誕生したが、母の身分が低かったので、三男の扱いになったという説がある。

◎豊臣秀吉(1537~98)

 秀吉の正室は「おね」(「ねね」とも/杉原定利の娘)がいたが、2人の間には子が授からなかった。秀吉には13人の側室がいたが、淀殿(浅井長政の娘)との間にだけ、鶴松と秀頼が誕生した。しかし、秀頼の父は、秀吉ではないという噂が当時から流れていた。

 秀頼の父は、大野治長だったという説があり、近年の研究でも実子でないという説が提起され、今も論争が続いている。淀殿は過剰なまでに政治に口を出し、あるいは秀頼に対して過保護だったなど、後世になって貶められたので、気の毒な女性だったといえる。

◎徳川家康(1543~1616)

 家康の正室は築山殿(関口氏純の娘)であり、ほかに21人もの側室がいた。天正7年(1579)8月、築山殿は武田氏との内通を疑われ、子の信康ともども処分された。天正14年(1586)、家康は朝日姫(豊臣秀吉の妹)を妻に迎えたが、4年後に亡くなった。

 側室の西郷局(西郷清員の養女)は、2代将軍となる秀忠を産んだ。慶長5年(1600)、59歳だった家康は、当時まだ15歳だった蓮華院(青木一矩の娘)を側室とした。家康は側室との間に11人の男子、5人の女子に恵まれ、その後の繁栄を築いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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