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天下人から高野山に追放され、悲惨な運命をたどった3人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
高野山。(写真:イメージマート)

 天下人(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)によって高野山(和歌山県高野町)に追放され、その後は悲惨な運命をたどった武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎佐久間信盛(1528~1582)

 信盛は織田信長の重臣として、各地を転戦し軍功を挙げた。天正4年(1576)、信長は信盛に対して、最大の難敵だった大坂本願寺攻めを任せた。信盛は信長から大いに期待されたが、十分な戦果を挙げることができず、4年後に信長は大坂本願寺と和睦した。

 信長は信盛が成果を挙げられなかったことに激怒し、子の信栄ともども高野山に追放した。信長に口ごたえしたことも理由となった。信盛は病気となり、高野山で亡くなった(熊野という説もある)。子の信栄は許されたが、もはや往時の威勢を取り戻せなかったのである。

◎北条氏直(1562~1591)

 氏直は氏政の子として誕生し、天正8年(1580)に家督を継承した。その10年後、氏直は小田原城で豊臣秀吉と雌雄を決することになった。しかし、結果は敗北し、氏政や重臣は切腹。氏直は家康の娘婿だったことも考慮され、高野山に追放されたのである。

 天正19年(1591)以降、氏直は赦免活動を開始し、同年2月には許された。氏直は秀吉から1万石を与えられて大坂に住み、妻の督姫(家康の娘)も大坂にやって来た。しかし、かつての関八州を支配した勢いはなく、同年11月に病没したのである。

◎織田秀信(1580~1605)

 秀信は信忠(信長の子)の子として生まれ、天正10年(1582)の本能寺の変後は織田家の家督を継承した。しかし、信長の亡きあとは、岐阜城主として13万石という処遇に過ぎなかった。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、秀信は西軍に与して戦った。

 秀信は東軍に岐阜城を攻撃され、呆気なく降参した。戦後、秀信は出家し尾張に向かった。その後、徳川家康の命により高野山に赴いたが、信長が高野山攻めを行ったので歓迎されなかった。5年後の5月、秀信は向副で病没し、その生涯を閉じたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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