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後藤又兵衛は大坂夏の陣で死なず、生き延びていたという説について考える。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伝後藤又兵衛甲冑(松江城/島根県松江市)。(写真:イメージマート)

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、豊臣秀頼は徳川家康に敗れ、大坂城内で自害して果てた。その際、真田信繁や木村重成などの武将も戦死した。後藤又兵衛(基次)も戦死したが、生き延びていたという説もあるので、その真偽を考えることにしよう。

 又兵衛は播磨国の出身で、父は三木城(兵庫県三木市)主の別所氏に仕えていた。天正8年(1580)に別所氏が羽柴(豊臣)秀吉に滅ぼされると、父は自害したので、残された又兵衛は黒田官兵衛(孝高)に仕えた。

 天正15年(1587)、官兵衛が中津に移ると、又兵衛も付き従った。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、黒田家が福岡(福岡市)に移ると、又兵衛は大隈城(福岡県嘉麻市)主となり、約1万6千石を与えられたのである。

 しかし、又兵衛は当主の黒田長政(官兵衛の子)との折り合いが悪くなり、慶長11年(1606)に黒田家を出奔した。牢人となった又兵衛は仕官活動をしたが、長政の奉公構によって、ことごとく妨害された。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣が起こると、又兵衛は豊臣方に馳せ参じたが、翌年の大坂夏の陣の道明寺の戦いで戦死したのである。又兵衛が亡くなったというのは、多くの史料に書かれている。

 ところが、戦死したのは影武者であり、生きていた又兵衛は信繁らと秀頼を連れ出し、日出(大分県日出町)から薩摩の島津氏のもとに逃亡したという説がある。又兵衛だけは日出に留まり、秀頼らとの再会を期して別れたという。

 又兵衛は中津時代の愛人だった「お豊」を頼り、伊福(大分県中津市)に向かい、平穏な生活を送った。承応3年(1654)、又兵衛は秀頼が亡くなったことを知ると、豊臣家の再興が不可能であることを悟り、自害して果てたと伝わっている。

 又兵衛の自害後、村人はその人物が又兵衛だったと知り、名勝耶馬渓の地に墓を建てたという。宝暦13年(1763)、伊福茂助は又兵衛の墓が荒れ果てたのを見かね、改めて建立したのである。

 この話はロマンに満ち溢れているが、又兵衛が生きていたことを示すたしかな史料で裏付けられない。信繁らの生存説と同じく、中津の人々が「又兵衛なら生きていたに違いない」という思いから創作したのではないかと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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