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織田信長に勧められるまま、荒木村重が脇差に刺した餅を食べたのは史実か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安土城。(写真:イメージマート)

 荒木村重が織田信長に反旗を翻したのは有名であるが(有岡城の戦い)、その理由については必ずしも明らかではない。一説によると、信長に勧められるまま、村重は脇差に刺した餅を食べ、その屈辱が謀反の原因になったというが、それが史実なのか考えてみよう。

 村重が脇差に刺した餅を食べたことを記すのは、『備前老人物語』である(成立年不詳)。同書は備前老人が聞いた話を集成したもので、戦国時代末期から江戸時代初期に至るまでのさまざまな武将の逸話を書き記している。ただし、備前老人が何者なのかは不明である。

 餅の一件については、冒頭に信長が安土城(滋賀県近江八幡市)にいた頃と書かれているので、天正4年(1576)以降の話になろう。村重は信長に報告することがあって、使者を遣わそうとしたが、適任の人物がいなかったので、自ら安土城に赴いた。

 信長は村重に面会すると、「お前が荒木弥助(村重)という者か。内々に聞き及んでいるぞ」と声を掛けると、目の前にあった餅を2・3個、脇差で刺して村重の面前に差し出した。

 すると、村重は畏れ多いことだと考え、自分の脇差を抜くと腹這いになり、口を開けて餅を食べようとしたという。信長はニコッと笑い、脇差を振り払って餅を落とすと、村重は餅をすべて食べたのである。信長は脇差を小姓に渡すと、小姓は脇差を鞘に収め、そのまま村重に与えた。

 以下、『備前老人物語』は、「信長公の異形不思議の振る舞いに対して、村重が即座にした対応は、古今では珍しいことだと、当時の人々は噂したという」と書いている。はたして、一連の話は史実なのか?

 信長が村重に面会したとき、初めて会ったかのような書きっぷりだが、村重が信長に仕えたのは元亀2年(1571)頃とされているので、明らかに矛盾している。文中の弥助という仮名は、村重が信長に登用される以前に用いられたものだろう。

 『備前老人物語』の作者は、信長が村重に初めて面会したとき、脇差に刺した餅を食べるのか否かで度胸試しし、村重が見事にこたえたことを描きたかったのではないだろうか。荒唐無稽な話としか思えない。

 餅の一件は信長と村重との邂逅を書きたかったようだが、そもそも時系列がおかしく、史実とは認めがたい。ましてや奇妙な話でもあり、村重が信長に反旗を翻した理由にはならないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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