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織田信長が足利義昭を激怒させ、完全に決裂した理由とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長(提供:アフロ)

 天正元年(1573)、足利義昭は織田信長と決裂し、戦いを挑むことになった。その理由は、義昭が信長から前年9月に突き付けられた「十七箇条の意見書」(以下、「異見十七ヵ条」)にあったので、詳しく検討することにしよう。

 「異見十七ヵ条」は写しが『信長公記』などに記録されているが、原本は残っていない。なぜ、それを読んだ義昭がなぜ信長にブチ切れたのか、以下、重要な部分を取り上げて検討することにしよう。

 第1条は信長が義昭が朝廷への配慮が欠けていた点を追及し、第10条は信長が「元亀」の年号が不吉なので義昭に改元を勧めたが、実行しなかったと記している。信長は幕府が朝廷に奉仕することが重要と考えていたので、義昭の怠慢を厳しく指弾したのである。

 第2条は義昭が御内書を発し諸国から馬を徴発したが、御内書を出す場合は、信長の副状を付けると決めていたので約束違反だと咎めた。義昭は信長の副状を付けることに対して、抵抗があったのかもしれない。

 第12条・14条は、義昭が諸国から進上された金銀を不当に溜め込み、城米(兵粮米)を売却して金銀に交換したと記す。第16条は義昭配下の者が武具や兵粮を売り払って金銀に換え、彼らは義昭とともに京都を出奔するとの風聞が流れていると書いている。

 信長は義昭が本願寺顕如、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、上杉謙信らに御内書を送り、信長に敵対しようとする動きをすでにつかんでいた。それゆえ、信長は義昭を激しく指弾したのだろう。

 決定的なのは第17条で、義昭を「悪しき御所(悪い将軍)」と土民や百姓までもが噂していると断罪した。そして信長は、義昭を赤松満祐に殺された足利義教と同じ(悪政を行う将軍)だとし、端的に言えば「義昭は将軍の器ではない」と指摘したのである。

 しかし、義昭は「金言(いましめや教えとして手本とすべき言葉)御耳に逆り候」と述べ、信長の意見を受け入れなかった。こうして、信長と義昭の関係は完全に決裂し、天正元年(1573)2月に義昭は信長へ戦いを挑んだのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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