後継者たる子がなく、無嗣断絶となった3人の大名とは?
少子化は現代の大きな問題であるが、それは近世初期も同じで、後継者たる男子がいないことは致命傷だった。当主が後継者がないまま死んだので、無嗣断絶となった3人の大名を取り上げることにしよう。
◎小早川秀秋(1582~1602)
秀秋は木下家定の子として誕生し、のちに豊臣秀吉、小早川隆景の養子になった。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、土壇場で東軍に寝返り勝利に導いた。戦後、その功が高く評価され、宇喜多秀家の旧領をほぼ与えられたのである。
秀秋が亡くなったのは、慶長7年(1602)のことで、子がなかったので無嗣断絶となった。一説によると、秀秋は大谷吉継の呪いにより狂死したというが、それは俗説である。秀秋の死因は、大量の飲酒によるものだったことが指摘されている。
◎武田信吉(1583~1603)
信吉は徳川家康の五男として誕生し、のちに武田一族の穴山梅雪の名跡を継ぎ、その遺領を継承した。その後、信吉は下総国小金(千葉県松戸市)、同佐倉(同佐倉市)に所領を給与され、慶長7年(1602)に常陸国水戸(茨城県水戸市)に15万石を与えられた。
信吉が亡くなったのは、慶長8年(1603)のことで、子がなかったので無嗣断絶となった。生まれつき信吉は体が弱く、死因は湿瘡(激しい痒みが長く続く病)だったという。信吉の死後、家康は十男の頼宣に水戸20万石を与えた。
◎松平忠吉(1583~1607)
忠吉は徳川家康の四男として誕生し、のちに松平家忠の養子になった。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、舅の井伊直政とともに先駆けして西軍を破り、東軍の勝利に貢献した。戦後、忠吉は尾張国清洲に約52万石を与えられたのである。
忠吉が亡くなったのは、慶長12年(1607)のことで、子がなかったので無嗣断絶となった。実子はいたが、すでに亡くなっていた。死に際しては、殉死した家臣もいた。忠吉の没後、忠吉の遺領は、家康の九男の義直に与えられたのである。