築山殿は徳川家康の側室が子を産んだことに嫉妬し、裸にして木に括り付けたのは事実か?
前近代には側室が認められていたので、戦国大名の多くは迎えていた。もちろん、徳川家康もである。家康の側室の「お万」が子を産んだところ、正室の築山殿が怒り狂ったというので、取り上げることにしよう。
天文17年(1548)、「お万」は知立神社(愛知県知立市)の神職・永見貞英の娘として誕生した。貞英は関係史料が乏しく、その生涯は不明である。なお、「お万」は「おこちゃ」などともいわれているが、以下よく知られた「お万」で統一する。
家康の正室は、関口氏純(今川家の家臣)の娘の築山殿だった。永禄2年(1559)、家康は築山殿との間に嫡男の信康を授かった。その翌年には、娘の亀姫も誕生したのである。
そんな築山殿の奥女中として仕えていたのが「お万」だった。家康は「お万」を見初めると、やがて妊娠した事実が判明した(いわゆる「お手付き」)。これに怒り心頭に発したのが、正室の築山殿である。
一説によると、激怒した築山殿は寒い日の夜だったにもかかわらず、浜松城(静岡県浜松市)内の木に「お万」を裸にして括り付けたところ、家康の家臣の本多重次が発見して保護したという。しかし、この話は当時の築山殿が岡崎城(愛知県岡崎市)にいたこともあり、成り立たないとされている。
こうして天正2年(1574)、家康と「お万」の子として誕生したのが秀康である(幼名「於義伊」。のちの結城秀康)。しかし、「お万」が産んだのは秀康だけではなく、実は双子だったという説がある(弟は知立神社の神職の永見貞愛)。
当時、双子は「畜生腹」といわれ、動物が一度にたくさんの子を産むのと同列に扱い、決して歓迎されなかった。一説によると、「お万」は築山殿から側室として承認されなかったので、妊娠が判明した時点で、追放されたともいわれている。
結局、秀康は重次のもとで養育され、家康に初めて面会したのは3歳のときだったと伝わる。その後、成長した秀康は豊臣秀吉、結城晴朝の養子に出され、徳川家の家督を継げず、弟の秀忠が家康の後継者となった。
いずれにしても築山殿が「お万」を裸にして木に括り付けたなど、荒唐無稽で信が置けない。のちに築山殿は家康から死に追いやられたので、それくらい悪い女性だったとするため、創作されたのではないだろうか?