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鎌倉幕府滅亡。北条仲時ら432人が蓮華寺で凄絶に切腹した経緯とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 鎌倉幕府は約150年続いたが、元弘3年(1333)に滅亡した。京都にある六波羅探題(鎌倉幕府の京都における出先機関)が反幕府勢力に攻められると、北条仲時らは逃亡し、432人が蓮華寺(滋賀県米原市)で凄絶に切腹した。その経緯や事情を探ることにしよう。

 元弘3年(1333)5月、後醍醐天皇の倒幕の命に応じた新田義貞は、鎌倉に攻め込むと、北条氏一族やその家臣を自害に追い込んだ。こうして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。

 同年5月7日、もともと幕府に与していた足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇に寝返り、六波羅探題を攻撃した。六波羅探題北方の北条仲時は家臣らとともに京都から脱出し、中山道を利用して鎌倉へと向かった。六波羅探題南方の北条時益は、東山付近で討たれた。

 その途中、仲時らがたどり着いたのが、番場宿(滋賀県米原市)である。番場宿は中山道の62番目の宿であり、琵琶湖の水運を利用した物流の拠点でもあった。ところが、幕府を追及しようとする手は緩むことなく、非常に厳しかったのである。

 佐々木導誉は野伏を送り込み、守良親王(亀山天皇の皇子)も軍勢を率いて、逃げる仲時らを討とうとしていた。仮に、その追及を逃れたとしても、その先の美濃には土岐氏一族、遠江には吉良氏一族が手ぐすねを引いて待ち構えていた。

 そこで、仲時らは近くの蓮華寺へと逃げ込んだが、もはや挽回する術はなかった。覚悟を決めた仲時は、本堂の前で自害して果てたのである。配下の糟谷宗秋は、仲時の腹に刺さっていた刀を抜くと、仲時の膝に抱きつくように自害したのである。

 こうして5月9日、北条氏一族ら432人は、自害して果てたのである。蓮華寺には、その模様を描いた説明板が設置されているが、血が川のように流れたので、「血の川」と称されたと書かれている。まさしく、仲時らの凄絶な最期だった。

 蓮華寺第三代の同阿良向は、北条仲時ら姓名がわかった189人の名前を記した。それが蓮華寺宝物館に所蔵される『陸波羅(ろくはら)南北過去帳』で、重要文化財に指定されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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