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関ヶ原合戦で負けた真田昌幸は、九度山で絶望的で寂しい最期を遂げていた。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原。(写真:イメージマート)

 真田昌幸と言えば、闘志に満ち溢れた策士ようなイメージがある。しかし、関ヶ原合戦で負けた昌幸は、九度山で絶望的で寂しい最期を遂げたといわれているので、検討することにしよう。

 慶長5年(1600)9月、関ヶ原で西軍は敗北した。西軍に味方した真田昌幸・信繁父子は、徳川家康から九度山(和歌山県九度山町)への蟄居を命じられた。

 九度山で生活を送る昌幸・信繁父子は日々作戦を練り、「打倒家康」を悲願としていたというが、実際は違うようだ。それは、あくまで講談などでの話である。

 慶長8年3月15日、昌幸が送った書状の中で、本多正信(家康の家臣)を介して家康に赦免を願おうとしたことがわかる(「信綱寺文書」)。「打倒家康」どころか、逆に許してもらおうとしたのだから驚きである。昌幸は経済的に苦しく、書状の宛先の信綱寺から2匁の送金があったようだ。

 それだけではない。慶長8年1月9日、昌幸は豊国社(京都市東山区)の願主となり、銀子7枚を奉納した。その間に入ったのは、秀吉の正室・北政所だった(『梵舜日記』)。昌幸はなりふり構わず、どんなつてを頼ってでも、家康の許しを得ようとしたのである。

 しかし、昌幸の涙ぐましい努力は実らず、ついに故郷の上田(長野県上田市)の土を踏むことはできなかった。子の信之も昌幸の赦免に動いたが、家康の怒りは解けなかったのである。やがて、昌幸の体は、病に蝕まれていった。

 昌幸は子の信之に書状を送り、高齢で気力・体力ともに衰えたとことなどを詳しく記している。一方で、信之に心配を掛けないように、「変わりないので心配しないように」と言っているが、衰えは明らかだった。

 別の昌幸の書状(信之宛)には、病気が長引いていること、信之に会いたいと思っているが、実現しそうにないと書いている。ここに至ると、昌幸は心身ともに衰え、「打倒家康」どころではなかったのである。

 慶長16年(1611)6月4日、昌幸は真田庵(和歌山県九度山町)で亡くなった。九度山での生活は11年にも及んだが、実際は「打倒家康」どころではなく、晩年は病と貧困に苦しみながら、絶望の中で病没したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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