慶長の役で豊臣秀吉が削いだ敵兵の鼻を日本に送るよう指示した理由。
文禄の役に続き、2度目の朝鮮出兵があったのは、慶長2年(1597)の慶長の役である。このとき豊臣秀吉は諸将に対して、戦功の証として削いだ敵兵の鼻を持ち帰るよう指示したという。その驚くべき理由とは?
慶長2年(1597)7月、秀吉は善光寺(長野市)の如来像を方広寺(京都市)に遷座することにした。方広寺は、秀吉が創建した寺院だった。一見すると、慶長の役とは関係なさそうだが、これが大いに関係していたのである。
秀吉は諸将が朝鮮に出兵する際、戦功の証として朝鮮兵の鼻を削ぎ、日本に送るように指示した。これが、先述した方広寺の件と大いに関係していたのである。その事情について考えてみよう。
文禄4年(1595)、秀吉は方広寺を創建したが、翌年の慶長伏見大地震によって、開眼前の大仏が損壊した。当時、この大仏は奈良の東大寺を上回る、我が国最大のものといわれていた。
これには、さすがの秀吉も大いに落胆したが、再建のめどが立たなかった。ある日、秀吉は夢を見た。その夢のお告げによって、善光寺の如来像を遷座し、損壊した大仏の代わりにしようと計画したのである。これは、織田信長らの名将も成しえなかったことだ。
秀吉は善光寺の如来像を遷座する際のパフォーマンスとして、朝鮮半島に出陣した諸将から送られた朝鮮兵の鼻を祀った鼻塚を築き、花供養を行おうと考えたのである。これには、もちろん理由があった。
清水克行氏によると、四海を制圧した秀吉は、敵兵である朝鮮兵の菩提を弔い、それにより京都の人々に慈悲深いリーダーとしてのイメージをアピールしたと指摘する。つまり、鼻削ぎは鼻塚を築くためのものであり、戦った結果の産物ではなかったのだ。
日本軍がターゲットとしたのは南原城であり、慶長2年(1597)8月に落とすことに成功した。その際、足軽は脇差を抜いて鼻を削ぐと、その鼻を鼻紙入れにしまい込んだという。鼻削ぎは、全軍に徹底してたのだろう。
『朝鮮記』という史料によると、大将の場合は首をそのまま進上したという。そのほかの兵に関しては鼻を削いで、腐敗を防ぐため塩・石灰を混ぜた壺に保存したという。こうして鼻は、日本に送られたのである。
主要参考文献
清水克行『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー、2019年)。
山室恭子『黄金太閤』(中公新書、1992年)。