武田信玄が3千もの首を並べ、敵の戦意を削ぎ、捕らえた人々を売り捌いたという小田井原の戦いとは?
現代の戦争も非常に残酷であるが、戦国時代の合戦でも目を覆わんばかりの所業が行われた。小田井原の戦いでは、武田信玄が3千もの首を並べ、敵の戦意を削ぎ、捕らえた人々を売り捌いたというので取り上げることにしよう。
父の武田信虎から家督を継いだ信玄(当時は晴信。以下、信玄で統一)は、信濃に侵攻すると、諏訪氏、大井氏を次々に打ち破った。ところが、志賀城(長野県佐久市)の笠原清繁は、信玄にしぶとく抵抗していた。清繁には、もちろん考えがあった。
隣国の上野国には関東管領の上杉憲政がおり、援軍を期待することができた。上杉氏からは高田憲頼が援軍として派遣され、志賀城に籠っていたが、高田氏は笠原氏と縁戚関係にあった。とはいえ、戦国最強の武田軍は、清繁の予想を上回る破壊力を持っていた。
天文16年(1547)閏7月、信玄は甲府を発つと志賀城に向かい、たちまち攻囲した。その後、籠城戦のセオリーである城の水の手(城の水源)を断つことに成功し、戦いを有利に進めたのである。
上杉軍は志賀城の救援に向かったが、その軍勢は約2万という数だったという。こうして8月、武田軍と上杉軍は、小田井原(長野県佐久市)で交戦した。結果は上杉軍の惨敗で、3千もの兵が討たれたという。
信玄は、討ち取った3千もの首を志賀城からよく見える場所に並べ置いたという。首は棚に並べられたが、兜首(上級武将の首)は槍に刺して高くかざした。これにより城内の将兵は戦意を喪失し、上杉軍の援軍が来ないことを覚悟したのである。
その後、武田軍が志賀城に総攻撃を仕掛けると、城主の清繁と援軍の憲頼は討ち取られ、ついに落城したのである。これで戦いは終わったものの、悲惨ともいえる戦後処理が行われたのである。
志賀城に籠っていた兵は捕縛されると、金山に送り込まれて強制労働させられたという。また、女性や子供は乱取りといい、武田軍の兵たちに捕らえられた。親族は金銭を払い身受けしようとしたが、あまりに高額だったので叶わなかったという。
清繁の妻は美しかったといわれ、小山田信有の愛人となった。いずれも後世の編纂物に書かれた話ではあるが、こうした残酷な所業や乱取りは、戦国時代にあったことである。