織田信長に逆らって没落した足利義昭と子供たちのその後とは?
足利義昭は織田信長の助力を得て室町幕府を再興したが、のちに決裂して戦いに敗れた。その後も義昭は信長に抵抗し続けたが、最後はどうなってしまったのか、その子供たちも含めて考えてみよう。
天文6年(1537)、義昭は義晴の次男として誕生したが、後継者となる可能性が乏しいこともあり、出家して興福寺一乗院(奈良市)入室した。法名は、覚慶である。
永禄8年(1565)に将軍で兄の義輝が殺されると、義昭は興福寺を脱出して近江国に逃れた。その3年後、義昭は信長に推戴されて京都に入ると、悲願だった室町幕府を再興したのである。
ところが、義昭はやがて信長と不和になり、その関係は元亀4年(1573)に破綻した。天正4年(1576)、義昭は備後鞆(広島県福山市)に移ると、毛利氏を頼って「信長包囲網」を形成したのである。
天正10年(1582)6月、信長は本能寺の変で横死したが、義昭の悲願だった室町幕府再興は実現しなかった。やがて、天下人の座は羽柴(豊臣)秀吉に移ったが、義昭との関係は決して良くなかった。
2人の関係が改善したのは天正14年(1586)のことで、義昭は京都への帰還を果すと、秀吉に従うことになったのである。2年後、義昭は朝廷に征夷大将軍職を返上したので、この時点で室町幕府は完全に消滅したといえよう。
その後、義昭は出家して昌山道休と名乗り、秀吉の御伽衆のような立場で厚遇された。慶長2年(1597)8月、義昭は病気になると、そのまま回復することなく、大坂で亡くなったのである。
義尋(義昭の子)は、元亀4年(1573)に義昭が信長と戦って敗北した際、信長に人質として送られた。のちに、義尋は興福寺に入ると大乗院門跡となり、大僧正に昇進した。義尋は還俗して「高山」と名乗り、慶長10年(1605)10月に亡くなったのである。その生涯には、不明な点が多い。
義尋にはは実相院義尊、円満院常尊という2人の子がいたが、関係史料が乏しく、その生涯はほとんどわからない。僧侶だった2人の子は生涯独身だったので子がなく、その死をもって足利将軍家は滅亡したのである。