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無断で締結した和睦を咎められ、羽柴(豊臣)秀吉に粛清された武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 戦国時代、交戦中に敵わないとわかったら、そのまま討ち死にするか、降参して和睦を結ぶかになろう。無断で締結した和睦を咎められ、羽柴(豊臣)秀吉に粛清された武将がいたので、取り上げることにしよう。

 秀吉に粛清されたのは、樋口直房という武将である。直房の主君は、近江国坂田郡の堀秀村だった。秀村の父は早く亡くなったので、直房が重臣として堀家の家中を取り仕切っていたのである。

 元亀元年(1570)6月、秀村は織田信長に通じたという。一説によると、仲介したのは竹中重治だったと指摘されている。秀村が織田方に与したこともあり、信長は姉川の戦いで勝利したといわれている。

 戦後、秀村は秀吉の与力として編成された。秀村には、野村氏などの近江国人が従っていた。秀吉は近江国人に直接命令を下すことはできず、それをできるのは秀村だった。秀吉にとっては、面倒だったに違いない。

 天正元年(1573)9月、浅井氏は信長によって滅ぼされた。『当代記』という史料によると、浅井氏が滅亡する前、秀吉は5万石を領していたが、秀村はそれより多い10万石だったという。それゆえ秀村は秀吉の意見に従わず、徐々に関係が悪化したという。

 同年、朝倉氏が滅亡すると、朝倉氏の旧臣だった桂田長俊(前波吉継)が越前守護代に任命された。ところが翌年、長俊は富田長繁が率いる一向一揆勢に討たれたのである。

 そのような事情もあり、秀吉らは越前国敦賀軍に軍勢を進め、越前国の一向一揆に備えた。その際、秀吉は越前国と近江国の国境付近にある木の芽峠(福井県南越前町・敦賀市)の城に秀村と直房を置いた。

 同年8月、越前一向一揆が突如として木の芽峠に攻め込むと、城に鉄砲を撃ち込み、矢を射かけたという。秀村と直房は必死に防戦し、秀吉からの援軍を待ったが、すぐさま落城寸前に追い込まれたという。

 そこで、直房は自身の判断で一揆勢と和睦を結び、開城すると、自分は妻子とともに近江国へ逃亡したのである。これを知った秀吉は、ただちに直房の捕縛を命じると、関盛信に捕らえられて殺害された。

 秀村も責任を追及され、改易という厳しい処分を科されると、織田家中から追放されたのである。その後、秀村は秀吉の弟の秀長に仕えたといわれ、慶長4年(1599)に亡くなった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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