徳川家康が織田信長の命により、おじの水野信元を討った経緯と事情とは?
戦国時代は主君の命令であれば、近親者でも殺すという非情な面があった。徳川家康は織田信長の命により、おじの水野信元を討ったが、その経緯と事情について考えてみよう。
水野信元は、忠政の次男として誕生した。於大(徳川家康の母)との関係は、異母兄になる。忠政の時代は今川氏に与していたが、信元は家督を継ぐと、織田氏に急接近するようになった。一方、於大の夫の松平広忠は、変わらず今川氏に属した。
こうした事情もあり、天文13年(1544)、於大は広忠と離婚することになった(のちに於大は久松俊勝と再婚)。以降、信元は織田信秀(信長の父)の三河侵攻を手助けし、自身も知多半島に勢力範囲を広げようとした。
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いが勃発し、今川義元は信長に討たれた。この戦いが、信元の運命を大きく変えた。その2年後、信長と家康が和睦を結んだ際、信元は仲介役を果たしたのである。
以後、信元は家康とともに、信長の命に従って各地を転戦した。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いは、その代表といえるだろう。信長にとっての信元は、貴重な戦力だった。
ところが、信元に不幸な出来事が起こった。天正3年(1575)12月、信元に対して、秋山虎繁に兵糧を売ったとの嫌疑が掛けられた(『松平記』)。虎繁は武田方の武将で、同年の岩村城の戦いで信長に敗れ、長良川で妻や家臣らとともに磔刑に処された。
これを知った信長は、信元が武田方に寝返ったと考え、家康に対して信元を討つよう命じたのである。同年12月27日、信元は大樹寺(愛知県岡崎市)において、家康の手の者により殺害されたのである(切腹という説もある)。
討手の平岩親吉は、「信元に恨みはなかったが、主君の命令なので止むを得ず討った」と述べ、涙を流したという。信元の死後、その遺領は佐久間信盛に与えられた。信盛が信元を讒言したという説もあるが、それは疑わしいと指摘されている。