Yahoo!ニュース

女は様々な髪形をしていた、古代ローマの服装の歴史

華盛頓Webライター
credit:pixabay

人類の歴史は服装の歴史といっても過言ではありません。

果たして古代ローマの人々はどのような服装をしていたのでしょうか?

この記事では古代ローマの女性の服装について紹介していきます。

古代ローマの女性の服装

古代ローマの女性たち、その装いの様式たるや実にギリシアの影響濃厚でありながら、妙に独自の華やぎをも纏うものでした。

日常の衣装たる「チュニック」を一枚羽織れば既婚者は慎ましやかな足元丈、未婚者は少々短め、という律儀さ。

胸元は詰め物入りの「ストロピウム」で強調され、「ゾーナ」という帯でしっかり覆います。

さらに上には「カスチュラ」と呼ばれるアンダースカートを通し、その上にもう一枚のチュニックを重ね着するという念入りな装備が施されていました。

これが庶民の女性たちならではの「ストラ」ですが、その装いは「廉恥のストラ」と称され、姦通や売春などの罪に触れる者には不許可であり、代わりに着ることを許されたのが「トガ」

さて、彼女たちはその外套として「パルラ」を、これは宗教画に見る聖母のごとく被り、ある時はベールのごとく、その髪を隠しました。

このパルラ、白い華奢なサンダルと相まって、古代の風情そのものといった風格を醸し出していたのです。

一方、上流階級の婦人たちはどうか。

彼女らは絹や綿の衣をまとい、それに美しい刺繍が施されていました

ローマの貴婦人たちが愛する絹、それはシルクロードを通じて遥か東方から輸入され、しかも相当な財が流れる運命となったのです。

エジプトからもたらされる鮮やかな染料で染め上げた衣は、煌めきと流麗さを備え、まるで女神が降臨したかのごとく

結婚式の時にはサフラン色のチュニックに、深紅の「フランメウム」ヴェール、花冠で飾られたローマ婦人の姿が町を彩ります。

その輝きの一端は、何百人もの女奴隷たちの尽力による美肌ケアと、ロバの乳で顔を洗う日々の努力の賜物といえましょう。

髪型もまた実に多彩で、オウィディウスが「ミツバチの数より多い」と言い放つほどのバリエーションに満ちていました

そんな古代ローマの女性たちの世界は、まさに一大ファッションの祝祭ともいえるものでした。

参考文献

丹野郁編(2003)『西洋服飾史 増訂版』東京堂出版

関連記事

男は布一枚だった、古代エジプトの服装の歴史

女性は筒形のワンピースを着ていた、古代エジプトの服装の歴史

男は肩出しの服装を着ていた、古代ギリシアの服装の歴史

様々なスタイルがあった、古代ギリシアの服装の歴史

男もムダ毛処理をしていた、古代ローマの服装の歴史

東西の文化が融合していた、ビザンツ帝国の服装の歴史

男は皆似たような服を着ていた、5~6世紀の服装の歴史

女は老いも若きもぺプロスを身に着けていた、5~6世紀の服装の歴史

男はリネンの服を着ていた、7~9世紀の服装の歴史

キリスト教の影響が強まっていった、7~9世紀の服装の歴史

男はチュニックを愛用していた、10~11世紀の服装の歴史

女は黒い靴を愛用していた、10~11世紀の服装の歴史

男はチュニックを身に着けていた、12世紀の服装の歴史

女は長いスカートをはいていた、12世紀の服装の歴史

ファッション意識も高まった、13世紀の服装の歴史

女は美しさを意識した服を作り始めた、13世紀の服装の歴史

男は体型を強調する服を着ていた、14世紀の服装の歴史

女は華やかな衣装を着始めた、14世紀の服装の歴史

男は足を自慢する服装を着ていた、15世紀の服装の歴史

袖のために破産する人もいた、15世紀の服装の歴史

ファッション競争の幕開け、16世紀の服装の歴史

スカートはどんどん長くなった、16世紀の服装の歴史

男は軽やかさを取り戻した、17世紀の服装の歴史

女たちの足元も軽やかになった、17世紀の服装の歴史

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

華盛頓の最近の記事