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  1. 藤原実資『小右記』、藤原道長『御堂関白記』などに見る、平安貴族が日記を書いた切実な理由
    …右記』や道長の『御堂関白記』、一昨年の『鎌倉殿の13人』の時代なら、九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』などが代表的なものである。なお、歴史学の用…
    JBpressライフ総合
  2. 【光る君へ】藤原家が五摂家という5つの家に分かれた理由を考える
    …居を構えたのが、家名の由来となった。 九条家は、藤原忠通の三男・兼実を祖とする。兼実が京都九条殿(京都市上京区)に居を構えたのが、家名の由来となった。
    渡邊大門エンタメ総合
  3. 【陸上】JMCシリーズ・長野マラソン招待選手に兼実省伍、川田裕也、川内理江
    …男子は2022年の別府大分毎日マラソンでマークした2時間10分02秒を持つベテランの兼実省伍(中部電力)、今年2月の延岡西日本マラソンで2時間12分31秒の自己記…
    月刊陸上競技スポーツ総合
  4. 東京世界陸上へアピールなるか下田裕太、小山裕太ら激突 岸本大紀はフル初挑戦/別府大分毎日マラソン展望
    …一般参加では、2時間9分21秒の自己ベストを持つ國行麗生(大塚製薬)や2時間10分02秒の兼実省伍(中国電力)、2時間10分41秒の熊谷拓馬(住友電工)が出場予定。先頭…
    月刊陸上競技スポーツ総合
  5. 外界からくる異人や敵対者を鬼と捉える意識に着目、古代から現代までの鬼の通史―小山 聡子『鬼と日本人の歴史』磯田 道史による書評
    …慎人(みしはせひと)を鬼とみなしているとし、鎌倉時代の関白・藤原(九条)兼実(かねざね)が日記に、伊豆の島に来た南方の漂流民を鬼と報告した事実などが丁…
    ALL REVIEWSライフ総合
  6. 平安京さんぽシリーズ⑩ 豊臣秀吉の変革を今に伝える「旧五条通」を歩く(後編)
    …かれた石碑が立ちます。浄土真宗大谷派の寺院で、かつては九条兼実の別邸があった場所であり、兼実の息女で妻となった玉日姫と過ごしたとも伝えられています。 …
    山村純也文化・アート
  7. 「北条義時の死因」は脚気の治療に用いた「トリカブト」の中毒だった?
    …条(藤原)兼実(1149-1207)も若い頃から長く脚気に苦しんだが、当時は原因がわからず治療に難儀したとその日記『玉葉』に書いている。兼実は毎年、夏…
    石田雅彦科学
  8. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】慈円も説明に苦労した、摂家将軍の「三寅」とは何者か
    …経の尽力があった。「三寅」の母は、公経の娘だったので納得できる。 道家は兼実の孫であり、道家の母は頼朝の妹と一条能保の間にできた娘だった。つまり、「三…
    渡邊大門エンタメ総合
  9. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条政子が「尼将軍」と呼ばれた知られざる理由
    …道家の三男「三寅」(のちの頼経)が摂家将軍として、鎌倉に招かれた。道家は兼実の孫で、道家の母は頼朝の妹と一条能保の間にできた娘だった。「三寅」は頼朝の…
    渡邊大門エンタメ総合
  10. 「鎌倉殿の13人」、慈円は当時を代表する名家の出であった
    …文麿は近衛家の直系の子孫である。慈円は、この近衛基実と九条兼実兄弟の実弟である。また、兼実の娘宜秋門院(ぎしゅうもんいん)は後鳥羽上皇の中宮(皇后以外…
    森岡浩ライフ総合
  11. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】実は昵懇だった。後鳥羽上皇と源実朝の深く良好な関係
    …源通親が実権を掌握しており、非常に心もとない状況が続いていた。通親は九条兼実の失脚により、台頭したのである。 正治2年(1200)後鳥羽は守成親王を皇…
    渡邊大門エンタメ総合
  12. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】あまりにラッキーすぎた。北条時政の前半生を改めて探る
    …政は朝廷政治の刷新を進めるべく、後白河法皇の近臣を更迭し、幕府が推す九条兼実を関白に据えることに成功したのである。 その後、頼朝の代官である一条能保が…
    渡邊大門エンタメ総合
  13. 「鎌倉殿の13人」がおもしろい、これだけの理由
    …期は、たくさん一次史料があるわけではない。 もっとも頼りになるのは、九条兼実の『玉葉』などの公家日記であるが、そこに書かれたことは鎌倉からもたらされた…
    渡邊大門エンタメ総合
  14. 【京都市】左京区 日本の楊貴妃と呼ばれた丹後局が隠居した「浄土院」(大文字寺)
    …者として力をふるった人物で女性政治家としての走りと言われてます。関白九条兼実の日記に日本の楊貴妃と書かれたほどの絶世の美女だったとか。「丹後局堂」では…
    高津商会RICA京都
  15. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】梶原景時は一幡を連れて、鎌倉から逃走しようとしたのか
    …は根拠のない話ではない。■『玉葉』の記述 正治2年(1200)1月、九条兼実は自身の日記『玉葉』のなかで、関東兵乱の噂を書き留めている。以下、その概要…
    渡邊大門エンタメ総合
  16. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が驚倒した、土御門通親暗殺未遂事件の全貌とは
    …近した。非常に変わり身が早い人物だったのだ。こうして通親は、朝廷内に九条兼実に匹敵する地位を得たのである。 その後、通親は源頼朝とも通じ、後鳥羽に皇子…
    渡邊大門エンタメ総合
  17. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】ますます存在感を増す北条時政は、いかにして権勢を握ったのか
    …政は朝廷政治の刷新を進めるべく、後白河法皇の近臣を更迭し、幕府が推す九条兼実を関白に据えることに成功した。その後、頼朝の代官の一条能保が上洛したので、…
    渡邊大門エンタメ総合
  18. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】後継者を決めずに亡くなった源頼朝の無念
    …3年を経てから記録したのか、理由は不明である。 頼朝が懇意にしていた九条兼実も、自身の日記『玉葉』に頼朝の死を記録していない。何らかの理由があったのか…
    渡邊大門エンタメ総合
  19. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝が生前に構想していた後継者問題
    …どを贈った。一方、頼朝が頼りにしていた九条兼実に対しては、わずか馬2頭だった。その差は歴然としており、兼実の心中は穏やかでなかったに違いない。 頼朝が…
    渡邊大門エンタメ総合
  20. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝も驚いた。「建久7年の政変」における九条兼実の失脚
    …盟友の九条兼実は重要人物である。今回は兼実が失脚した「建久7年の政変」について、詳しく掘り下げてみよう。■源通親の台頭 源頼朝は、九条兼実と親交が厚く…
    渡邊大門エンタメ総合
  21. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝は、本当に落馬が原因で死んだのか
    …、病気がちだったと書かれている。 実は、頼朝がもっとも親しくしていた九条兼実も、自身の日記『玉葉』も頼朝の死について、何も書き残していない。何らかの意…
    渡邊大門エンタメ総合
  22. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】大河ドラマでは省略された、源頼朝による東大寺復興の重要性
    …に参列することだけではなかった。その後、頼朝は2度目の上洛を果たし、九条兼実と面会を行うなどした。その点については、改めて取り上げることにしよう。
    渡邊大門エンタメ総合
  23. 「○条」「○小路」という名字は公家の多数派なのか
    …高能(いちじょう・たかよし)と、ココリコ田中直樹扮する摂関家の実力者九条兼実(くじょう・かねざね)である。一般に公家というと「○条」や「○小路」という…
    森岡浩ライフ総合
  24. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の娘・大姫が死に至った、決定的なワケ
    …は盟友だった兼実と意見交換をさほど行わなかった。これには、理由があった。 丹後局、通親は国衙領を院の荘園としたが、かつて頼朝はそれを兼実と協力して阻止…
    渡邊大門エンタメ総合
  25. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の娘・大姫が心を痛めた、これだけの理由
    …時、摂政だった近衛基通と大姫を結婚させようと目論んだ。しかし、頼朝は九条兼実とのパイプを重視したので、この話を丁重に断った。 ただし、頼朝は朝廷とのさ…
    渡邊大門エンタメ総合
  26. 【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝を支えた北条時政は、なぜ強大な権力を持ったのか
    …の刷新を進めるという意向を受け、後白河法皇の近臣を更迭し、幕府が推す九条兼実を関白に据えることに成功した。これにより、朝廷は頼朝の思い通りになった。 …
    渡邊大門エンタメ総合
  27. 【深読み「鎌倉殿の13人」】大河ドラマで山寺宏一さんが演じるキーパーソンの慈円とは何者なのか
    …155)、慈円は藤原忠通の子として誕生した。のちに摂政や関白を務めた九条兼実の弟である。慈円は家督を継ぐ可能性が乏しかったので、11歳で出家して、延暦…
    渡邊大門エンタメ総合
  28. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の首を見た源頼朝は、本当に激しく慟哭したのだろうか
    …られた。義経が討伐されたことを知った九条兼実は、自身の日記『玉葉』のなかで、「天下の悦び」と記している。兼実は頼朝との親交が厚かったので、このような感…
    渡邊大門エンタメ総合
  29. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が早々に都落ちし、頼朝が得た思いがけない成果
    …、後白河の態度は一変した。まず摂政だった近衛基通に代えて、親頼朝派の九条兼実を起用した。頼朝に対する配慮である。 同年11月7日、義経の官職を解くと、…
    渡邊大門エンタメ総合
  30. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の逃亡中、義行、義顕と名前が変わった納得の理由
    …義行に改めるということだった(『吾妻鏡』)。 良経とは九条良経のことで、兼実の次男だった。義経と良経は漢字で書けば違っているが、読み方が「よしつね」と…
    渡邊大門エンタメ総合
  31. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が無断で官職を授けられ、源頼朝の逆鱗に触れたわけ
    …京都から放逐したことを機にして、朝廷の人事に口出しするようになった。九条兼実を摂政、氏長者にすべきことを後白河法皇に奏上したが、これは認められなかった…
    渡邊大門エンタメ総合
  32. 【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲の死後、後白河法皇は安徳天皇と三種の神器を心配した
    …神器の帰還を優先し、追討使と和平の使者を派遣しようと考えた。しかし、九条兼実は平家の反発を恐れ、和平の使者を平家に送るべきだと主張した。むろん、頼朝に…
    渡邊大門エンタメ総合
  33. 【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲を破っても、大した権限がなかった源義経
    …前に希望を聞くことによって、調整を図ろうとしたのだろう。朝廷内でも、九条兼実に恩賞の件について諮問がなされた。 飛脚が京都に戻ってきたのは、翌月2月の…
    渡邊大門エンタメ総合
  34. 【深読み「鎌倉殿の13人」】都落ちした平家が意外と頑張っていたという知られざる事実
    …は没落の一途をたどったように思えるが、実際にはそうでなかった。以下、九条兼実の日記『玉葉』などで、平家の状況を確認しておこう。 都落ちした平家は、数百…
    渡邊大門エンタメ総合
  35. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が後白河法皇から与えられた「寿永2年の宣旨」とは
    …②2条―数万の軍勢で上洛すると、京都が大混乱すること。 これを聞いた九条兼実は、頼朝の明晰な考え方に賞賛の言葉を送った。いずれにしても、京都の人々は義…
    渡邊大門エンタメ総合
  36. 【深読み「鎌倉殿の13人」】後白河法皇が三種の神器の奪還にこだわった、当然すぎる理由
    …つことが天皇である証だったからである。 安徳天皇がいなくなったので、九条兼実から新しい天皇の践祚について述べられた。しかし、一方では安徳天皇が京都に戻…
    渡邊大門エンタメ総合
  37. 【深読み「鎌倉殿の13人」】平清盛の悲惨な最期は、高熱による悶絶死だったのか
    …すぐに湯になったという。いずれの逸話も、高熱を誇張したものだろう。 九条兼実の『玉葉』には、「頭風を病む」と書かれているので、頭痛だったことがわかる。
    渡邊大門エンタメ総合
  38. 【深読み「鎌倉殿の13人」】フィクションと史実の狭間で、大河ドラマを楽しむ方法
    …鎌倉時代は、そんなに史料が多いわけではない。もっとも信頼できるのは、九条兼実の日記『玉葉』だろう。これが、同時代に成立した一次史料である(ほかにも同時…
    渡邊大門エンタメ総合
  39. 【深読み「鎌倉殿の13人」】富士川の戦いで惨敗した平維盛は、情けない男だったのか
    …によって、維盛は「桜梅少将」と称された。維盛のあまりに美しい容貌は、九条兼実も絶賛するほどだった。 治承3年(1179)、維盛の父・重盛が病没した。代…
    渡邊大門エンタメ総合
  40. 【深読み「鎌倉殿の13人」】こりゃダメだ。平清盛が信用されなくなった福原遷都
    …ることに賛意を示すはずがなかった。 公家の反対も猛烈だった。摂関家の九条兼実は、自身の日記『玉葉』で「ただ天魔、朝家を滅ぼさんと謀る」と嘆き悲しんだ。
    渡邊大門エンタメ総合
  41. 【深読み「鎌倉殿の13人」】源氏の長老格・源頼政が「打倒平氏」を目論んだ理由
    …である。 源氏の一門で三位に昇叙したのは、頼政が初めてである。当時、九条兼実は自身の日記『玉葉』に「第一之珍事也」と驚いた様子で書き記している。破格の…
    渡邊大門エンタメ総合
  42. 「鎌倉殿の13人」で登場!源頼政の最後の戦いを追う
    …伝わる。この時頼政はすでに74歳となっており、時の貴族の権威者である九条兼実も、日記『玉葉』の中で、この頼政の昇進の知らせを「第一之珍事也」と記してい…
    山村純也文化・アート
  43. 【深読み「鎌倉殿の13人」】挙兵前の源頼朝の史実はどこまでわかるのか
    …代の研究に『吾妻鏡』は欠かせない。 『吾妻鏡』のほかには、公家日記(九条兼実の『玉葉』など)があるが、この時期の一次史料は戦国時代や江戸時代に比べると…
    渡邊大門エンタメ総合
  44. 鎌倉幕府といえば源頼朝だけじゃなかった! 幕府創設に携わった中心人物5人集
    …て、頼朝に貴重な情報を伝えていたのだ。 娘は後鳥羽天皇の乳母、関白・九条兼実の子・良経の妻になり、また西園寺公経を婿とするなどして、朝廷との関係を強固…
    渡邊大門エンタメ総合
  45. 一条、二条、三条……「数字+条」の名字、最大の数字はいくつ?
    …の邸宅のあった場所に因んでいる。こうした「数字+条」という名字では、九条兼実や三条実美という名前を聞いたことがある人も多いだろう。この「数字+条」とい…
    森岡浩ライフ総合
  46. 【中世こぼれ話】あの法然や親鸞もかかわっていた僧侶と女性の密会事件、承元の法難の真実
    …のである。■承元の法難の全容 建久9年(1198)、法然は慈円の兄・九条兼実(かねざね)の勧めもあり、『選択本願念仏集』を執筆した。このことが契機とな…
    渡邊大門エンタメ総合
  47. 【先取り「鎌倉殿の13人」】「当国の豪傑」と称され、源頼朝を支えた北条時政の哀れな末路
    …政は朝廷政治の刷新を進めるべく、後白河法皇の近臣を更迭し、幕府が推す九条兼実を関白に据えることに成功した。 その後、頼朝の代官である一条能保が上洛した…
    渡邊大門エンタメ総合
  48. 【中世こぼれ話】あまり知られていない「三種の神器」。その本来の意味を改めて考えてみる
    …されていたわけではない。たとえば、鎌倉初期の公家で摂政・関白を務めた九条兼実の日記『玉葉』では、「三神」「三ケ宝物」「三種宝物」という言葉が使用されて…
    渡邊大門エンタメ総合

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