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【深読み「鎌倉殿の13人」】こりゃダメだ。平清盛が信用されなくなった福原遷都

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛は、なぜ福原遷都を強行したのだろうか。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、あまり平清盛が目立たないが、公家や寺社は清盛を快く思っていなかった。その理由の一つが福原遷都である。その点を深く掘り下げてみよう。

■福原遷都の経緯

 治承4年(1180)5月、以仁王と源頼政が「打倒平氏」の兵を挙げたが、あっという間に鎮圧された。その翌月、平清盛が強行したのが福原遷都だ。福原は、現在の神戸市中央区から兵庫区にかけた地域である。

 清盛は以仁王に与した反平氏の寺社勢力への報復も半ばのまま、同年6月2日に安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇とともに福原に移った。しかし、まだ天皇らを迎える施設は、きちんと整備されていなかった。

 安徳天皇は平頼盛の邸宅、高倉上皇は清盛の別荘、後白河法皇は平教盛の邸宅を仮の住まいとした。なお、摂政の藤原基通は、安楽寺別当の安能の房にすんだのだから、いかに福原行きが慌ただしかったか理解できるだろう。こうして福原に都を置くべく、準備が進められた。

■福原遷都の理由

 清盛が福原に遷都した理由は必ずしも明確ではなく、自身は「天下を鎮静するため」と述べるにすぎない。

 とはいえ、福原は風光明媚なだけでなく、三方を山に囲まれた盆地で、平氏の基盤である貿易港の大輪田泊もあった。清盛自身も福原の雪見御所で長らく過ごしていた。

 福原遷都の理由としては、いくつかの説が提示されている。

 一つは、反平氏の勢力が京都やその周辺にいることが考えられ、その脅威から逃れるためである。南都(興福寺など奈良の寺院)など寺社勢力と距離を置きたかったからとの説もある。

 京都は平安京遷都以来、約390年近く都が置かれたので、天皇や公家の牙城だった。清盛は古い伝統的権威の天皇や公家を否定できないとしても、因習でまみれた京都を捨てることにより、福原で独自の政権を築こうとした、という考え方も提示されている。

 むろん、清盛による福原遷都は、一つの理由に集約できるものではなく、複数の理由が複雑に絡み合って、決断に至ったと考えるべきだろう。

■不評だった福原遷都

 このように半ば強引に清盛によって進められた福原遷都だったが、極めて不評だった。

 比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は、福原遷都に対して猛烈に反対した。延暦寺は皇城鎮護の寺だったので、京都から福原に都が遷ることに賛意を示すはずがなかった。

 公家の反対も猛烈だった。摂関家の九条兼実は、自身の日記『玉葉』で「ただ天魔、朝家を滅ぼさんと謀る」と嘆き悲しんだ。

 京都から見れば、福原は田舎町である。公家文化の象徴である京都を離れることは、とても考えられないことだった。しかし、兼実は「形勢に随うべき世」とすっかり諦めている。

 平氏は天皇らを連れて福原に移ったものの、徐々に京の都を懐かしがった。平宗盛、時忠といった平氏一門の上層部でさえも、京都に戻ることを主張するようになっていた。

 同年11月、清盛は公家や寺社勢力だけでなく、平氏一門からの反対に屈して、ついに天皇らともども帰京した。その間、各地で反平氏の狼煙が上がったので、帰京せざるを得なくなったというのが真相だろう。

 なお、その間に平氏が敗北した戦いについては、改めて取り上げることにしよう。

■むすび

 この翌年、清盛は激しい高熱にうなされながら、この世を去った。その後、平氏は都落ちし、転落の一途をたどるのであるが、ケチの付き始めは、福原遷都にあったのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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