「鎌倉殿の13人」がおもしろい、これだけの理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、だんだんシリアスになってきた。このあたりで、とっておきの「鎌倉殿の13人」の楽しみ方を深掘りすることにしよう。
歴史研究の基礎は、史料にある。史料といえば何でもいいのかといえば、もちろんそういうことはない。もっとも重要なのは、同時代の古文書、日記などの一次史料である。ただ残念なことに、鎌倉時代初期は、たくさん一次史料があるわけではない。
もっとも頼りになるのは、九条兼実の『玉葉』などの公家日記であるが、そこに書かれたことは鎌倉からもたらされた情報であり、一定の制約がある。朝廷と幕府が関わった記事は信頼できるが、東国の情勢は伝聞に過ぎないことも多い。
そこで、どうしても頼らざるを得ないのが後世に成立した二次史料(軍記物語、歴史物語、系図など)である。二次史料は玉石混交で、史料批判を通した検討が必要である。
『吾妻鏡』は鎌倉時代後期になって、北条氏が編纂に関わった。したがって、北条氏にとって都合の悪いことは書かない。ときに、荒唐無稽と思えるような記述も見られる。いかに『吾妻鏡』が鎌倉幕府の正史とはいえ、すべてを鵜呑みにするわけにはいかない。
つまり、この時代の研究は一次史料に依拠しつつも、実際は乏しいこともあり、二次史料の検討を含めて、史実を明らかにしようとしているのだ。
たとえば、源頼家が元久元年(1204)7月18日に伊豆で亡くなった際、『吾妻鏡』は単に死んだとしか記していない。ほかの二次史料では、北条時政や義時が殺害を命じたとか、あるいは頼家は風呂で殺されたなどと書いている。
時政や義時が殺害を命じた蓋然性は高いが、風呂で殺されたのかはわからない。『愚管抄』は頼家が陰嚢を掴まれて失神し、その隙に紐で首を縛られて殺害されたと記している。かなりリアルな話であるが、今となっては確かめようがない。
頼家の死の一件に限らず、史料(特に二次史料)によってさまざまなことが書かれているので、その史料の性格や執筆された意図や目的を考慮し、史実か否かを検討する必要がある。
そして、重要なことは、大河ドラマが史実をベースにした創作物であるということだ。歴史研究では、歴史上の人物の心情を推し量るとか、どんな性格の人物だったかをあまり追究しない。理由は簡単で、そういう事実を裏付ける史料が乏しいからである。
書状や日記に当該人物の喜びや悲しみが書かれていることがあるが、それだけの話である。わずかな情報をもとにして、歴史上の人物の心情や性格を普遍化すること(良い人物か、悪い人物かなど)は、歴史研究の範疇ではない。
それが可能なのが大河ドラマである。史料に書かれていない背景を探り、たとえ想像であっても登場人物の性格を生き生きと描き、ときに悔しい(あるいは「うれしい」など)心情を吐露させる。そこに、ドラマとしての魅力がある。
ともあれ、大河ドラマが放映されると、数多くの関連本が刊行される。ドラマを見ることと並行して、それらの本を紐解き、理解を深めることが重要である。それが、大河ドラマを見る楽しみ、醍醐味でもある。