Yahoo!ニュース

【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲の死後、後白河法皇は安徳天皇と三種の神器を心配した

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平家の都落ちとともに、三種の神器も持ち去られた。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、木曽義仲が源義経に敗れて戦死した。その後、源義経が入京したが、後白河法皇にとっては三種の神器が重要だった。その点を詳しく掘り下げてみよう。

■安心ではなかった源義経の入京

 そもそも後白河法皇や朝廷の面々は、平家の悪政に辟易としていた。しかし、平清盛が亡くなり、平家が衰退の一途をたどると、その隙に乗じて木曽義仲が入京した。後白河らは、義仲に大いに期待した。

 ところが、義仲はまったくの期待外れで、配下の将兵が京都市中で乱暴狼藉を働くありさまだった。寿永3年(1184)1月、源義経・範頼が入京を果たし、義仲の一党を討ち果たした。

 これで後白河が安心したかといえば、決してそうではなかった。平家が都落ちする際、安徳天皇とともに三種の神器が持ち去られていた。新たに天皇となった後鳥羽は、三種の神器がないまま即位していた。後鳥羽は、そのコンプレックスにさいなまれていたのだ。

 寿永3年(1184)1月の義経らの入京後、朝廷は源頼朝の恩賞などについて協議していたが、彼らにとってもっとも重要なのは、三種の神器を平家から奪還することだった。むろん、安徳天皇も生きたまま帰京させる必要があった。

■平家追討との板挟み

 当然、朝廷は「平家を追討すべし」と考えていたが、平家を追討することによって、安徳天皇や三種の神器が戻ってこないというリスクを抱えていた。ゆえに、すぐさま平家の追討命令を下すわけにはいかなかった。

 義仲の戦死から10日も経たないうちに、義経らは一ノ谷(兵庫県神戸市)で平家を討とうとした。これには、朝廷の面々も大変驚いたに違いない。ことは、十分に考える間もなく、一気に進んだのである。

 朝廷では頼朝らの威勢を恐れ、平家追討を声高に主張する者もいた。一方で安徳天皇と三種の神器を優先し、和平を主張する面々もいた。こうして意見が混乱し、追討か和平か容易に決まらなかったのだ。

 ところが、義経らは頼朝の判断を仰ぐまでもなく、平家の追討に動いていた。頼朝から事前に平家追討の命を受けていたのか不明であるが、それが既定路線になっていた。

■和平の使者

 後白河は安徳天皇と三種の神器の帰還を優先し、追討使と和平の使者を派遣しようと考えた。しかし、九条兼実は平家の反発を恐れ、和平の使者を平家に送るべきだと主張した。むろん、頼朝にも使者を送り、断りを入れる予定だった。

 こうして平家追討と和平の案が拮抗する中で、和平の使者を送る案が具体化した。使者を遣わす件は、平家にその内意を伝えたが、一方で頼朝に平家追討の宣旨を与えるという矛盾したことを行った。このことが混乱にいっそうの拍車をかけた。

 その後、朝廷内では和平より平家追討の意見が大勢を占めるようになり、和平の使者を送る計画は自然消滅した。和平案がなくなったことは、平家に大きな心理的なダメージを与えた。平家では、和平により帰京を望む者もいたのだ。

■むすび

 朝廷サイドでは、安徳天皇と三種の神器の帰還を優先し、平家との和平に傾いていた。しかし一方で、頼朝の威勢を恐れ、平家追討を優先する主張もあった。

 結果、勢いに流されるが如く、朝廷は平家追討へと一気に舵を切った。このことが、のちに大きな禍根を残すことになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事