【深読み「鎌倉殿の13人」】後白河法皇が三種の神器の奪還にこだわった、当然すぎる理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、平家が都落ちする際、安徳天皇と三種の神器を伴っていた。後白河法皇が三種の神器の奪還にこだわった理由について、深く掘り下げてみよう。
■没落する平家
平清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、皇室との関係を結んだ。徳子は、治承2年(1178)に高倉天皇の第一皇子を産んだ。この皇子こそが、のちの安徳天皇である。
治承4年(1180)、清盛は高倉天皇に譲位を迫ると、安徳天皇を皇位継承者とした。ところが、治承5年(1181)、清盛は熱病で生涯を閉じた。清盛を失った平氏一門は、その後、政権の座からすべり落ちることになった。
寿永2年(1183)5月、平維盛は加賀・越中で木曽義仲軍と対決したが、見るも無残な敗北を喫し、逃走を余儀なくされた。平氏との戦いで勢いを得た義仲は、念願の上洛を果たした。しかし、戦いに敗れた平氏は、都を打ち捨てて西走することになった。
■平家の都落ち
同年7月、平宗盛は都落ちを決意すると、子の清宗を法住殿に遣わし、安徳天皇に行幸を促した。安徳天皇は慌ただしく準備を整えると、剣璽を携えて出発した。剣璽とは、三種の神器のうちの草薙剣・八坂瓊曲玉のことである。
もう一つの神器の鏡(八咫鏡)は、平氏一門の平時忠が持ち出すことに成功した。宗盛が都落ちに際して、安徳天皇を連れ去った理由は、平氏政権の正統性の確保にあった。三種の神器を持ち出した理由は、神器を持つことが天皇である証だったからである。
安徳天皇がいなくなったので、九条兼実から新しい天皇の践祚について述べられた。しかし、一方では安徳天皇が京都に戻ってくるのを待つ、という選択肢もあり、二つの意見が対立することとなった。
■朝廷の混乱
後白河法皇は、別の角度から新天皇の践祚の可能性を模索していた。それは勘文を一つの根拠として、新天皇の践祚を行おうとするものだった。勘文とは、朝廷や幕府の諮問に答えて、諸司・諸道から上申された文書のことである。
しかし、三種の神器は存在しないため、践祚を行うには、それを繕うためのロジックが必要だった。そのロジックこそ、「如在之儀」と「太上法皇詔書」であった。
「如在之儀」の如在とは、「論語」にある言葉であり、神・主君が眼前にいるかのように、つつしみかしこむこと、を意味する。つまり、儀式の場において三種の神器は存在しないが、あたかもあるかのごとく振舞うことにしたのである。
■後鳥羽天皇の践祚
このように慎重な手順を踏まえたうえで、同年8月20日、新天皇として後鳥羽の践祚がかなったのである。
この践祚の儀は、肝心の「剣璽渡御」を欠くという、不完全なものであった。兼実はこれを評して、「希代の珍事である」と述べている。
ところが、践祚の儀だけでは、不十分であることは否めない。即位式を行わなければならないからである。当初、年内に即位式を行う予定であったが、度重なる内乱により、すぐに行える状況にはなかった。
したがって、後鳥羽は完全な天皇とみなされていなかったようである。
ここでも議論の的になったのは、儀式に必要な三種の神器が存在しないことであった。即位を行うには、相応の根拠が必要であるため、代案として卜占に拠るべきか、また勅許に拠るべきか、などの案が提示された。
こうして、同年7月28日に即位式は執り行われたが、剣璽がないという異例のものにならざるを得なかった。
■むすび
大河ドラマのなかで、後白河法皇が三種の神器の奪還にこだわったのは、新天皇の践祚、即位の問題があった。後鳥羽は天皇になったものの、不完全とみなされたのだ。その後の三種の神器については、壇ノ浦の戦いの放映後に取り上げることにしよう。