【深掘り「鎌倉殿の13人」】大河ドラマでは省略された、源頼朝による東大寺復興の重要性
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の24回目では、源頼朝が妻子を連れて上洛した。その直前、頼朝は東大寺の再興供養の儀に参列していたので、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。
■焼き討ちされた東大寺
治承4年(1180)12月、平重衡は興福寺、東大寺を攻撃し、大仏殿以下を焼き払った。焼き払われた東大寺は、人々が信仰する心の拠り所でもあった。東大寺の焼き討ちは、人々の心が平家から離れていく一因となった。
そのような事情もあって、源頼朝は仏敵たる平家を討つという名目を獲得することになった。文治元年(1185)の一ノ谷の合戦で、重衡は捕らわれの身となったが、頼朝はその武勇を惜しんで許そうとした。
しかし、東大寺の要請に従って、身柄を奈良に送らねばならなかった。結果、重衡は東大寺焼き討ちの罪によって、木津川湖畔で斬首されたのである。
重衡が死んだことで、すべてが解決したわけではなかった。東大寺はいまだ復興の途上にあり、頼朝も必然的に協力せねばならなかったのである。
■頼朝が東大寺に協力した理由
そもそも頼朝は、神仏への崇敬の念が強かった。伊勢神宮に願文を捧げるとともに、神領を寄進した。寺院に対しても同様で、寺領の寄進を行って保護に努めた。
当時、寺社を敵に回すことは、さまざまな面で不利になった。それは頼朝だけではなく、当時の人々も同じ考えだった。それゆえ、寺社に対して格別の政治的な配慮をすること、保護をすることは当然のことだったといえる。
東大寺の復興事業は、重源を中心にして行われた。復興事業が開始されたのは養和元年(1181)で、すでに重源は61歳になっていた。
事業を後押ししたのは、後白河法皇だった。大仏の鋳造を担当したのは、宋からやって来た陳和卿(ちんなけい)である。こうして大仏は元暦元年(1184)に完成し、翌年に開眼供養が執り行われた。
引き続き大仏殿の再建は続けられ、建久6年(1195)に完成した。後白河は周防を東大寺造営料国とし、東大寺に再建に必要な巨木をどんどん運搬した。
むろん頼朝も、東大寺の復興事業を積極的に後押しした。それは、後白河や東大寺との関係を円満にするという目的もあったに違いない。こうして同年3月、再興供養が挙行され、頼朝も参列したのである。
■まとめ
とはいえ、頼朝の目的は東大寺の再興供養に参列することだけではなかった。その後、頼朝は2度目の上洛を果たし、九条兼実と面会を行うなどした。その点については、改めて取り上げることにしよう。