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【深読み「鎌倉殿の13人」】源氏の長老格・源頼政が「打倒平氏」を目論んだ理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼政が挙兵したのは、子の名馬が平氏に強奪されたからか?(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、品川徹さんが演じる源頼政が登場した。頼政は源氏の長老格であるが、いったいどんな人物だったのだろうか。

■源頼政とは

 長治元年(1104)、源頼政は仲政の子として誕生した。頼政は摂津に基盤を持つ摂津源氏で、大内守護(皇居の守護)を職務としていた。

 頼政は鳥羽上皇に仕え、公家との交流も盛んだったという。また、頼政は和歌に優れており、歌集に『源三位頼政卿集』がある。豊かな教養を持った人物だった。

 注目すべきは、頼政の官歴である。保延2年(1136)、頼政は六位蔵人に叙位任官されると、同年は従五位下になった。従四位下に昇叙したのは、仁安2年(1167)のことである。

 この時点で頼政は64歳だったが、どうしても三位以上の公卿になりたかった。和歌の名手でもあった頼政は、なかなか三位に昇進しない不満を和歌に託した。

 『平家物語』 には、頼政の「のぼるべき たよりなき身は 木の下に 椎(四位)をひろひて 世をわたるかな」という和歌を載せている。これが不満を託した和歌だ。

 この和歌を知った平清盛は、頼政を従三位に昇進させるべく朝廷に推挙した。これにより頼政は、治承2年(1178)に晴れて念願の三位に昇叙したのである。

 源氏の一門で三位に昇叙したのは、頼政が初めてである。当時、九条兼実は自身の日記『玉葉』に「第一之珍事也」と驚いた様子で書き記している。破格の扱いだったのだ。

■頼政の戦歴

 文化人的な色彩が濃い頼政であるが、武人としての評価も高い。近衛天皇の時代、頼政は鵺(ぬえ)という怪物を退治し、近衛を恐怖から救ったと伝わっている。

 また、保元元年(1156)の保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方に与し、勝利に導いた。続く平治元年(1159)の平治の乱では、清盛に味方し勝利に導いた。

 平治の乱が終結すると、源氏一門は大きく衰退した。そのような状況下のなかで、頼政は清盛と良好な関係を築き、源氏の長老格として存在感を示したのだ。

■挙兵の動機

 では、頼政は清盛のおかげで大出世したにもかかわらず、なぜ「打倒平氏」の兵を挙げたのだろうか。その理由としては、有名な逸話が残っている。

 頼政には嫡男として仲綱がおり、「木の下」(または「九重」)という名馬を所持していた。しかし、清盛の子・宗盛が平氏の威勢をバックにして、強引に「木の下」を奪い取ったのである。

 それだけでなく、宗盛は「木の下」という馬の名を「仲綱」と改名し、焼印を押すなど侮辱的な行為を行った。これには、さすがの頼政も大いに立腹し、以仁王に「打倒平氏」の挙兵を持ちかけたという。

 とはいえ、この話は宗盛を愚将として描くための創作の可能性もあり、にわかに史実とは認めがたい。実際には、皇統が頼政が仕えた二条天皇の系統ではなく、平氏の息がかかった高倉天皇の系統に移ったことを理由として挙げる研究者もいる。

 とにもかくにも、こうして頼政は以仁王と結託し、ついに「打倒平氏」の兵を挙げたのである。

■むすび

 一見して頼政は平氏派のように見えたが、だんだん「打倒平氏」の決意を固めるようになった。挙兵の結果については、改めて紹介することにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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