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【深読み「鎌倉殿の13人」】富士川の戦いで惨敗した平維盛は、情けない男だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平維盛は、水鳥の羽ばたきで逃亡したのか。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」10回目では、富士川の戦い後を描いていた。ところが、惨敗した平維盛には触れられていなかったので、深く掘り下げてみよう。

■平家のプリンス・平維盛

 平治元年(1159)、平維盛は重盛の嫡男として誕生した。母は不明である。この年は、平清盛が平治の乱でライバルの源義朝を打ち倒すなど、平家の栄光のはじまりの年でもあった。

 安元2年(1176)3月、後白河法皇が50歳になったのを祝して、維盛は「青海波」を舞ってみせた。その美しく華麗な舞によって、維盛は「桜梅少将」と称された。維盛のあまりに美しい容貌は、九条兼実も絶賛するほどだった。

 治承3年(1179)、維盛の父・重盛が病没した。代わりに平家の家督を継いだのは、叔父の宗盛だった。重盛の死は、子の維盛らに暗い影を落とすことになる。

 維盛の妻は、藤原成親の妹だった。成親は鹿ケ谷の陰謀で殺されたので、維盛にとってはマイナスだった。また、重盛の死後、後白河法皇は重盛の知行国の越前国を収公した。

 維盛は越前国を取り上げられることにより、財政基盤を失うことになる。これに清盛は激怒し、治承3年(1179)に後白河法皇を幽閉したのである。

 治承4年(1180)に以仁王が「打倒平氏」の令旨を各地に送ると、それに呼応する勢力が多数あらわれた。源頼朝だけでなく、畿内でも反平氏勢力が挙兵した。

 同年5月、維盛は叔父・平重衡とともに宇治(京都府宇治市)に向かい、反乱軍を鎮圧した。維盛は大将軍だったが、実際に活躍したのは平家の家人で侍大将の藤原忠清だった。忠清は百戦錬磨の勇士だったので、維盛はとても敵わなかった。

■富士川の戦い

 治承4年(1180)9月、維盛は大将軍として、頼朝の討伐のため東下した。付き従ったのは、平家一門の忠度、知度に加え、侍大将の忠清である。

 維盛は出陣に際して、出鼻をくじかれた。忠清と吉日に出陣するか否かをめぐって口論となり、出発が大幅に遅れたのである。しかし、いざ出陣すると、維盛の姿は実に美しかったと伝わっている。

 維盛の行軍は厳しかった。源氏には次々と東国の豪族が参集したが、維盛の陣営にはなかなか将兵が集まらなかった。維盛の軍勢は約4万といわれているが、実際は4000ほどしかおらず、行軍の途中で1000~2000まで減っていたという。

 兵が減ったのは、途中で脱落したり、源氏に身を投じる者があったからだ。当時は飢饉でもあり、十分な兵糧も準備できなかったという。先行きは、実に不安だった。

 駿河国に入国すると、武田信義が維盛に使者を派遣し、不敵な挑戦状を叩きつけた。忠清は怒りのあまり、使者2人の首を刎ねたといわれている。ところが、維盛らが富士川に到着すると、源氏の大軍に驚き、すっかり怖気づいてしまった。

 結局、富士川に到着した維盛らの軍勢は、水鳥の羽ばたきを源氏の襲撃と勘違いして、一斉に逃亡したという。しかし、それは誤りであり、実際は維盛の軍勢が闇夜に紛れて退却したところ、その動きに驚いた水鳥が一斉に飛び立ったとみるべきだろう。

■むすび

 維盛は富士川から京都まで逃げ帰ったが、従ったのはたった10騎ばかりの将兵にすぎなかった。清盛は維盛の大失態に怒り心頭に発し、維盛が京都に入ることを禁止したほどである。

 ただ、維盛が情けない男だったかと言えば、やや誇張があるのかもしれない。平家の情けなさと没落の象徴として、イメージ付けられた可能性も高い。

 以降、維盛は多少の挽回はするが、おおむね連戦連敗で苦汁を嘗めた。その辺りは、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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