【深掘り「鎌倉殿の13人」】慈円も説明に苦労した、摂家将軍の「三寅」とは何者か
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、後鳥羽上皇が親王の東下を断ったので、代わりに「三寅」が鎌倉に下向した。「三寅」とは何者なのか、この点について詳しく掘り下げてみよう。
建保7年(1219)1月に源実朝が公暁に暗殺されると、幕府は次期将軍を誰にするかで対応に追われていた。前年に北条政子と弟の時房が上洛し、後鳥羽上皇の2人の子(親王)を次期将軍にすべく交渉を行い、何とか内諾を得ていた。
しかし、後鳥羽は寵愛する伊賀局が保有する摂津国倉橋荘・長江荘の地頭の交代問題(義時が地頭の交代を拒否した)、北面の武士の仁科盛遠の所領没収問題(義時による没収)があったので、親王を鎌倉に送ることに難色を示すようになった。
結局、再び時房が上洛し、親王を鎌倉に送るよう朝廷に懇願したものの、最終的に拒否された。義時は親王将軍の実現が難しいと考え、速やかに次の将軍候補を検討することにした。
その際、三浦義村が提案したのが、摂関家から新将軍を迎えることだった。後鳥羽は親王を将軍にすることに関しては拒否したが、摂関家からならば問題なしと考えていた。
そこで、鎌倉に招かれたのが九条道家の三男「三寅」だった。当時はまだ2歳だった。「三寅」を鎌倉に送るのに際しては、西園寺公経の尽力があった。「三寅」の母は、公経の娘だったので納得できる。
道家は兼実の孫であり、道家の母は頼朝の妹と一条能保の間にできた娘だった。つまり、「三寅」は頼朝の曽孫に当たるので、新しい鎌倉殿にふさわしいということになったのだろう。
一説によると、後鳥羽はこの人選に難色を示したが、最終的には認めたという。「三寅」は6月25日に京都を発つと、7月19日には鎌倉に入り、早速、政務開始の儀式である政所始の儀が執り行われた。
しかし、「三寅」はまだ幼少だったので、代わりに北条政子が政務を執ることになり、義時が将軍家を奉行することになった。こうして、新将軍の問題は解決したのである。
ここまで迅速に次期将軍を決めることができたのは、類稀なる義時の政治手腕によるものといわれている。