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【深読み「鎌倉殿の13人」】平清盛の悲惨な最期は、高熱による悶絶死だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛は、高熱により悶絶死した。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、とうとう平清盛が死んでしまった。あまり死の状況が詳しく描かれていなかったが、この点を深く掘り下げてみよう。

■熱病を患った平清盛

 治承5年(1181)2月末頃、平清盛は激しい熱病に苦しんでいた。清盛の熱病は、江戸時代の川柳で「清盛の 医者は 裸で脈を取り」と詠まれたほどだった。医者が裸になったというのは、清盛の体温が異常なほど高温だったからである。

 『平家物語』によると、水槽に比叡山の千手井の水を満たし、そこに清盛の体を沈めたが、あまりの熱さに水が湯になったと書かれている。比叡山の千手井の水は、水量が豊富で非常に冷たいことで有名であるが、まったく効果がなかったのである。

 『大乗院古日記残闕』によると、清盛は激しい頭痛に悩まされていたが、やがて高熱に苦しみ、体が焦げ付くような重症になった。そこで、雪を器に盛って、清盛の頭に置いたが、それはすぐに湯になったという。いずれの逸話も、高熱を誇張したものだろう。

 九条兼実の『玉葉』には、「頭風を病む」と書かれているので、頭痛だったことがわかる。また、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶」とあるので、清盛が激しく動きまわって熱に苦しんだ状況がうかがえる。病名については諸説あるが、記録だけでは特定できないだろう。

 こうして同年閏2月5日、清盛は64歳で病没したのである。清盛の死により、以後の平家は坂道を転げ落ちるように転落するが、その点は追々取り上げることにしよう。

■死期を悟った清盛

 死期を悟った清盛は、後白河法皇に使者を送り、「自分の死後は宗盛とよく相談し、万事をお申し付けください」とお願いした。清盛の長男・重盛、次男・基盛はすでに亡くなっていたので、三男の宗盛があとを継いでいた。しかし、後白河からは何の返事もなかった。

 清盛が危篤であることを知った後白河は、この機会に乗じて平家を討とうとしたという。しかし、後白河には頼りになる武力集団がいなかったので、実行に移すことができなかった。これまでの両者の関係を見る限り、後白河がそう思っても仕方がないだろう。

 死期の迫った清盛は高熱にうなされながらも、「葬儀は不要。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言してこと切れたという(『平家物語』)。また、『吾妻鏡』には「3日後に葬儀をせよ」と書いているので、葬儀の扱いについては正反対である。

 「清盛死す」の一報を聞いた九条兼実は、すぐに弔問の使者を遣わした。その一方で、清盛のこれまでの非道(後白河幽閉事件、南都焼き討ちなど)を取り上げて、「本来、清盛は戦場で死すべきだったが、病気で死んだのは運が良かった」と述べている。

 そして、兼実は「神罰冥罰はこれから起こるだろう」と平家の滅亡を予言した。栄耀栄華を極めた清盛は、その不遜な態度で天皇や公家から憎まれていたのだ。

■むすび

 このように清盛は無念にも病死し、兼実が予言して見せたように、以後の平家には過酷な運命が待ち構えていた。その辺りは、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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