【深掘り「鎌倉殿の13人」】ますます存在感を増す北条時政は、いかにして権勢を握ったのか
7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、北条時政について考えることにしよう。
■北条時政と源頼朝
保延4年(1138)、北条時政は伊豆国の在庁官人である時方の子として誕生した(母は、伴為房の娘)。北条氏と言えば伊豆の小豪族というイメージがあるが、史跡北条氏邸跡(円成寺跡・静岡県伊豆の国市)の発掘調査により、決してそうではなかったと指摘されている。
永暦元年(1160)、平治の乱で敗れた源頼朝は、伊豆に流された。そこで、時政の娘・政子と出会い、駆け落ちして結ばれた。こうして、時政は頼朝に従うようになった。時政は平家から睨まれる可能性があったものの、頼朝に将来を託したのだ。
治承4年(1180)、頼朝と時政は以仁王から「打倒平氏」の令旨を受け取り、石橋山で平氏方の大庭景親と戦うが、敗北。時政は甲斐に逃亡し、頼朝は安房に敗走した。危機一髪だった。
甲斐に逃れた時政は、甲斐源氏の武田信義を味方に引き入れ、頼朝とともに富士川の戦いで平氏軍を撃破した。この戦いの勝利により、時政と頼朝の運命が切り開かれたのである。
■源平の争乱と時政
文治元年(1185)3月、頼朝は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。ところが、頼朝は弟の義経と対立し、一触即発の事態に陥った。同年、義経は朝廷から頼朝追討の宣旨を与えられたので、2人は決裂した。
同年11月、頼朝は代官として時政を京都に送り込んだ。時政が大軍を率いて上洛すると、朝廷は直ちに態度を豹変し、頼朝に義経追討の宣旨を与えた。これにより、頼朝は義経より優位になったのである。
さらに時政は朝廷と交渉し、諸国、荘園に守護、地頭を置くこと、加えて兵糧米を徴収することを朝廷に認めさせた。これにより、頼朝の存在は朝廷から認知された。現在、この年に鎌倉幕府が成立したとの説が有力視されている。
時政は朝廷政治の刷新を進めるべく、後白河法皇の近臣を更迭し、幕府が推す九条兼実を関白に据えることに成功した。その後、頼朝の代官の一条能保が上洛したので、時政は鎌倉へと戻った。京都の警備は、時政の甥の時定が任命され、時政は伊豆、駿河の守護になった。
■頼朝死後の時政
建久3年(1192)、頼朝と政子の間に実朝が誕生すると、時政は誕生の儀式を担当して存在感を示した。しかし、正治元年(1199)1月、頼朝が落馬して亡くなると、幕府内では御家人たちに動揺が広がった。
頼朝の死後、比企一族は頼家を後釜の将軍に据えようと画策し、それは実現した。時政は政子とともに、2代将軍の頼家を守り立てた。建仁3年(1203)、時政は政所別当、初代執権に就任し、将軍頼家の権限の削減に成功したのである。
■まとめ
時政が台頭したのは、頼朝の舅であったからだった。また、娘の政子、子の義時の支援もあった。その後、北条一族は時政を核として、幕府内で権勢を振るった。ところが、以後の時政は政子、義時との確執により没落するが、その点は追々取り上げることにしよう。